GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは

老人大学学習記録 第29号
八幡平老人クラブ連合会・八幡平市民センター

<昭和のおもいで その3>

「ゼンマイ織り」のことなど
 
 「ゼンマイ織り」の現物とはどんなものかは、自分はまだ分らない(見たことは
あったかも知れないが……)。聞くところによると、ゼンマイ織りは結構上質の織
物で、いわゆる「よそ行き」の衣装であったらしい。山形県のある地方では昔、裕
福でない世帯で死者を葬るとき、せめてもと、ゼンマイ織りで亡骸をおおったもの
であったという。
 
 昭和といえば、第二次世界大戦と敗戦、つまり世の中は、どこの家も物不足と生
活苦に喘いでいた。自分が曙国民学校に入学した年の八月に、終戦(終戦という意
味も分らず、記憶も定かでない?……)になったとのことである。
 その当時のことを思い出せば、玩具などは買ってもらえず、姉兄からのお下がり
である絵本やいろはカルタ、積み木などで遊んでいたようである。
 ある絵本には、農村の風景などが描かれていたり、また「ダイコン、カブラにニ
ンジン、ゴボウ、ジャガイモ、サトイモ、サツマイモ、ネギやタマネギ、キャベツ
にクワイ、キョウナ、カラシナ、ハクサイ、ツケナ、ミツバ、コマツナ、またホウ
レンソウ」などとも記述されていたり、今でも思い出して、就寝のときに呪文のよ
うにつぶやくこともある。
 外での遊びは、好奇心というか、冒険のマネ事というか、田んぼや畑をかけ巡っ
たりした。また隣り近所は言うに及ばず、松館のほぼ全部の家々のカグヂ(家屋の
周囲)を巡ったこともあった。ときには、何の関係のない家へ行って、無断で家の
中にまでノコノコと入り込んだこともあったようである。そんなときは帰宅すると
きまって、母のオシオキが待っていた。
 自分の家の中も、探検には絶好の場所であった。神棚には、そら恐ろしい権現様
が据え置かれており、いつもにらまれていた。風邪をひいたときは、祖母は権現様
の髪の毛(細い紙)をいれた水薬を飲ませてくれたものである。
 萱葺きの屋根裏(中二階)にも、いろいろな物が仕舞ってあった。ある木箱には、
綿の切れ端が入っていた。それは、今思い出すと「ゼンマイ」の綿毛であったよう
である。
 
 さて、松館には、明治生まれの「生き字引」である下田初雄翁が健在である。下
田翁とは、菅原神社の祭典のときとか、毎月の天神講のときなどで、お会いするこ
とがある。
 あるとき、車中ではあったが、「ゼンマイ織り」のことについて、次のようなお
話を伺った。
 昭和の初め頃のことであろうか、屋号中村(現佐藤久治氏宅)に佐藤亀太郎氏と
いう方が居られた。亀太郎氏は国有林野の管理のことに従事され、その頃、山形県
北部の、確か「及位(のぞき)」(秋田県との県境付近)という所の官舎(事務所)
に住んで居られた。
 その辺りは山深く、ゼンマイなどの山菜がよく採れたらしく、「ゼンマイ織り」
が盛んに織られていた。下田翁が遠路わざわざ山形の亀太郎氏を訪れたときには、
ゼンマイ織りのことなども、よく話されたたという。
 その後亀太郎氏は各地に転勤となり、やがて県南の仙北(生保内か)辺りの官舎
に住んで居られた。そこでも矢張りゼンマイ織りについて、いろいろと研究されて
いた。亀太郎氏はゼンマイ織りを普及すべく、松館の兄夫妻などもよんで、何日も
かけてゼンマイ織りの技術を習得させたという。後に、鹿角辺りでも、この技術が
広まり、ゼンマイ織りが方々の家で織られるようになったようである。
 
 因みに、出羽(山形・秋田)では、古くから「ゼンマイ織り」が織られていたの
で、一般的な織り方を記してみたい。
 経糸(たていと)には絹糸(ときには木綿糸)、緯糸(よこいと)には真綿とゼ
ンマイの綿毛で紡いだ糸を用いる。
 まず春に採ったゼンマイの綿毛を天日で干した後、一旦蒸して、また乾燥させる。
乾燥させたゼンマイの綿毛と真綿とをほどよく混ぜて綿状にする。必要によって、
これに水鳥(白鳥など)の羽毛を混ぜることもある。この綿状のものを糸車を用い
て糸に紡いで緯糸とする。
 このゼンマイ織りは、防虫、防水、保温などに優れているという。必要により草
木染を施すこともある。
 
「政子姫の織った羽毛の織物考」

[次へ進む]  [バック]