GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(4)

 ということで見事落選の話しは終るわけですが、たゞ私達にとっては、 五の宮といえば何んの説明をしなくてもすぐ分るが、よその人にとってはそれは神社の名前なのか、 山なのか、地域の名称なのか全然わからないと思う。 だから私が五の宮云々といってみたところで通じないのはあたり前だ。 だが今度は少しわかってもらえるかナー、と思っている。 それは「大日堂舞楽」が世界遺産に登録されたからだ。この大日堂舞楽を守り伝へているのが、 いわゆる小豆沢の大日さんで、その大日堂の由来を語るのが「だんぶり長者物語り」 ということになれば、この美しくも心やさしい悲しい物語りをたどって行けば、 五の宮さんにつながってくる。
 
 私がはじめて五の宮に登ったのは、高等二年のときの遠足だった。 その後一〜二度登ったような気もするが、戦後は登ったことはないが、 頂上の方はガケになっていて、大分古くなったような神社があった (だんぶり長者の物語りに出てくる長者の娘吉祥姫と第二十六代継体天皇との間に生まれた五番目の 皇子をまつっているとかいう)。 今は建てかえられて立派になっているだろうが、行ってみたくても行けなくなったので、 鹿角山岳会の人達に聞いてみようと思っている。
 とにかく私達にとっての五の宮は、五番目の皇子さんに親しみを込めての五の宮さんで、 そのまつられている山だから五の宮山でいゝと私は思っている。 たゞ国土地理院発行の五万分地形図には五の宮嶽になっている。
 
 私達は、小学校の運動会の応援歌で「五の宮高くそびえ立つ、米代清く流れたる……」と 歌ったものだが、この五の宮は鹿角では尾去沢からが一番良く見える、と私は思っている (異論もあるだろうが)。 私がその思いを更めて深くしたのは古希祝の同級会のとき、 そのスナップ写真に五の宮を入れたいと思って、何個所も場所をかえてうつしてみたが、 私のバカチョンのカメラ(それより持っていないので)では、遠くの方にかすむように小さく写るだけで、 実感にははるかに及ばない。自分の眼にみえている姿は、大きく立派に見えるのだが。
 
 去年の秋、閉山してもう三十年もすぎた、禿山の木も大分大きくなったナーと思って、 閉山前の写真(昭和五十二年九月頃)とくらべてみようと思って、鉱山に上っていった。 そのとき啄木が青垣山をめぐらせるとうたった五の宮を主峰とする山なみと、 尾去沢鉱山の景観が一体なんだ、切り離せないと思って、 精錬の煙突と五の宮を一枚の写真に入れようと思ったが、私のバカチョンではどうしても無理だった (腕前のこともあると思うが)。
 啄木が鹿角の国を憶う歌をつくったのは、もう百年も前のことになってしまったが、 いくら啄木が鹿角の国を憶って感動の涙を流してみたところで、鹿角に伝わるだんぶり長者や 錦木塚の美しい物語りがわからなければ、啄木の感動は伝わらない。 今、大日堂舞楽が世界遺産に登録なったことで、 新しい響きをもって啄木の詩が私達の心に蘇ってくるだろう。そんなことを思っている。
 この啄木の詩は、私達の目にはあまりふれることはないが、 市役所の玄関脇にこの詩を刻んだ碑が建っている。 ……「青垣山を繞らせる天さかる鹿角の国をしのぶれば涙し流る。 今も猶錦木塚の……」
 
 くり返しになるが、私は五の宮は尾去沢からが一番よく見える、といったが、 この五の宮を主峰とする青垣山は、尾去沢鉱山の前に立てば、私達を抱きかゝえるように広がって、 一望のもとに見わたせる。 私達が尾去沢鉱山といったときに、それはいわゆる鉱石を掘り出す鉱山、 私達の生活を支える職場としてのみ見ていたのではないだろうか。 したがって五の宮、青垣山といっても、私達の生活にはかゝわりのない、 いわば意識の外においていたのかもしれない。 今こうして鉱山の前に立って、鹿角の山なみを見ていると、 それはこの鉱山と一体となった切り離せない大事な景観であったとの思いを強くする。
 今鹿角の人達は十和田・八幡平、それをめぐる温泉郷などの発展には力を入れても、 閉山した(いわば役に立たなくなった)尾去沢鉱山にはあまり関心を持たないのでは、 と思うのは私のひがみ根生としても、鹿角という地域を思うとき、その歴史、 文化また経済的に考えてみても、その中心には常に尾去沢鉱山があった。 尾去沢鉱山は少なくとも鹿角の発展・繁栄を支えてきた要であった、と思っている。 今は閉山したとはいえ、観光という面からみてもも、 まだまだ開発発展の大きな要素を持つ大事な資源だと思っている。

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