下タ沢会によせて(覚書)

下新田の人達が歩いた道

 そこまではよかったが、私は下新田の人達が新通洞のできる前、カゲ(町部)に 出るため歩いた道を間違っていたようだ。私は下新田の人達も今の十二所花輪線の 昔の道を通って峠に出て、崎の沼の方に出て行ったと思っていたが、浅岡義栄さん が、下新田の上流、庚申さんのところから左の沢に入り、山道を登り、お堂の長根 を通って、といっている。さて?と思った。私は下タ沢の方から行く頭しかなかっ たので、下新田の人達が別の道を歩いていたなんて考えてみもしなかった。
 私は子供の頃、下新田の方に遊びに行ったことは殆んどなかったので、その庚申 さんからして、どこにあるかわからない。そこで浅岡活男さん(浅岡義栄さんの娘 婿)に聞いてみた。
 庚申さんは、部落上みの橋を渡ると稲荷さんがあるが、その脇、グランドにして いる所にあるという。稲荷さんなら大体見当がつく、お堂の長根とは、どこだと聞 いたら、部落の人達は稲荷さんのことを「オドッコ」といっていると、それに続く 峯だからお堂の長根といったと思った。急な坂道で、子供の頃、馬をひっぱってよ く歩いた、とは畠山喜久蔵さん(私より一つ下)の話し。
 この道は、下タ沢の方から行くと、下モの蟹子沢が奥に行くと行き止まりになり 沢が左右に分れるが、その左側の小さい沢を上って行くと(道は其の沢の脇を通っ ていた)、今の県道に出る。そこらあたりに下新田からくる道も出てくると思うの で、このあたりをコエト(どんな字を書くか分からない、と)といい、そこから 少し上って行くと、先に書いた峠に出る(後で図面をみながら話し合うことにして いる)。
 
 となれば、沢出家の先祖善太夫が堤の沢に出てくる道も、考え直さなければと思 ったが、わざわざ遠まわりして下新田に出ることもないだろうと思うので(どっち の道が歩き易くてよかったか、わからないが)、私達が歩いた道を通ってきたもの と思うが、戊辰戦争のとき、南部軍が下新田口を固めるために通った道は、下タ沢 側ではなく、当然下新田側だったと思うので、石頭の思い込みを訂正することにす る。

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