それにしても、大坂城から出かけて来た善太夫は、どこに住んだろうか。南部重
左衛門の屋敷は帯刀(太頭)屋敷といわれ、西道にあったといわれており、その留
守宅にそのまま住んだろうか、あるいはその近くに住んでいたろうか。 この善太夫はいつ頃かわからないが、前記のように隠居して、下新田入口下沢、 下の堤の沢に住んでいたが、正保4年(1647)病気の為に死んだというが、二代目半 蔵は父と一緒に堤の沢に来たろうか、それとも当分別居していて、後から来たろう か。この二代目は寺岡さんの本によれば、善衛門と書かれたり、善右衛門と書かれ たりしているが、三代目も善右衛門と書かれていることから、この二代目が住むよ うになった頃から、善衛門沢と呼ばれるようになったかもしれない。 この下タ沢の善衛門沢はどこだろうか、私達が子供の頃はあまり善衛門沢などと いうのは聞いたことがなかった(私達より10ぐらい年上の人達は知っていたかもし れない)。ただ堤の沢だけは知っていた。それは下新田の草刈場だった茅野とい っていた平(ひら)の隣の大きい沢で、その沢に行くには、石垣の高い堤防があっ て、そこを「ツツミ」といっていた。その堤防をこえて行く沢が堤の沢で、春にな るとよく山菜を取りに行った。私達が子供の頃はその沢の入口付近は桑畑になっ ていて、その木は山に自然に生えている木と違って、はっぱも大きく(カイコ用な ので剪定されていた)、何よりもその実が大きくてうまかった(取って食っている のを見つかると、怒られて逃げたものだ)。その木はいつの間に切られたかわから ないが、その後植えられた杉の木も大きくなって(3〜40年になるだろうか)沢全体 も杉林になり、山菜もあまり取れなくなった。 この沢にはよく山菜を取りに行ったが、そこが屋敷跡で、昔大きな家があったな どとは全然知らなかった。それで善衛門沢などと聞いたときは、トヨ子さんの家の 後ろの泉水のあったところが大きな屋敷跡だったようなので、その前を横切るよう に沢が流れていたので、その沢を善衛門沢というのだろうか、と思ってみたりして いた。その後尾去沢文化財保存会の人達が作った「尾去沢地区史蹟箇所位置図(付 図2参照)」をみると、私達が堤の沢といっていた所のようなので、一応納得した (下タ沢には誰もいなくなったが、下新田には昔からの人達が住んでいるので、そ の辺のことはよく知っているかもしれない)。 「拡大写真」 |