話しは少しおかしくなったが、この栗山さんによると、毛馬内で剣術を教えてい
た勝又はその後、流派を花輪の関右平太に譲ったという。この右平太の息子が良輔
で、相馬大作(下斗米秀之進)に師事し、その片腕となって矢立峠で津軽藩主を襲
撃、失敗して江戸に逃れたが、幕府に捕えられ、下斗米秀之進と共に小塚原で刑
死、獄門になったという(時に23才)。 私達年代のものは、相馬大作の話しはよく聞いたり読んだり(講談本などで)し て(名前ぐらいは)知っているが、私もよく相馬大作の子孫か、などとひやかされ たりしたが、この大作は、南部藩士であったというから、関良輔も何にかの縁で大 作に師事し行動を共にするようになったと思われる。この関良輔の名は、大作の名 のかげにかくれて、鹿角の人でも知らない人も多いので、事の正否はともかくとし て、その純真な心意気を良として、鹿角の宣伝に一役と思ったが、首を切られたの が文政5年(1822)というから、今から180年くらい前、やっぱりそっとねむらせ ておく方がいいか。大作と一緒に処刑されたのは、この良輔一人だけのようだから、 一の子分であったかもしれない。ところで彼の墓はどこにあるだろうか、浄法寺の 関与茂七の養子になっていたというから、そちらにあるのだろうか。 小塚原(こづかっぱら)の刑場は1,000坪以上もあって、罪人は処刑後、ここに埋 めたというから、関良輔も市中引廻しの上、打首獄門ということで、ここに埋めら れ、そのままになったろうか、それとも後でこっそり掘り返して(そんなことでき たろうか)、家に連れて来たろうか。 参照リンク:「相馬大作事件」 |