さて、南部公が勧請したという両社神社はどこにあったろうか。獅子沢にあった
ことは確かとしても、どの辺かわからない。 古い写真(鹿角市史第三巻上の口絵写真 − 明治40年前後の尾去沢鉱山 − )を 見ると、右端しの方選鉱場があったと思われるあたりに、他の建物と少しはなれて、 神社らしい建物が見えるので、推定の域を出ないが、これが両社神社であったかも しれない。 「拡大写真」 となれば、私達が高等科に通っていた頃(昭和10〜11年)は、鉱山事務所前の広 場あたりには、神社らしいものはなかった。ということは、もしかして明治40年か ら大正のはじめにかけて、事務所の上(中沢の貯水池のあったあたり)に移転した のではないだろうか。大正5年には、新築後日も浅かった選鉱場が巻揚機から出た火 で全焼しているというから、その選鉱場を作る計画のあったあたりかとも推測され る。また明治から大正にかけての戸数の激減、あるいは元山にあった採鉱事務所な ど鉱山の中心をなした建物など、いつカゲに移ったのか、など考えてみれば、この 明治の末から大正のはじめにかけては、尾去沢鉱山の姿が大きく変貌したときでは なかったろうか。こうしたことは、鉱山側の文書資料を克明にみてゆけば、わかる ことだとは思うが、ともあれこうして両社神社は、元山山神社に合祀ということに なる。 |