こうしてみると、花輪の円徳寺というのは、尾去沢鉱山地域には大きな力を持っ
ていた(庵寺が三ツもあることからも)と思われる。柳舘さんの書いたものによる
と、浄土宗円徳寺は元和二年(1616)創立で、最初永久沢金山にあった。後西道金
山に移転、その後花軒田の二ツ森の続きの高寺山に移り、更に花輪に移った(年
代不明)という。その後二度火災(元文五年(1740)自火、延享二年(1745)類焼)
に遇っているので、記録などほとんど残っていないので、くわしいことはわからな
いという。また柳舘さんは次のようなことを書いている。円徳寺境内入口の右脇に
小さい堂の金勢神社が祀られている。手足を怪我した人が拝むと早くよくなるとい
われている。鉱山働きの坑夫などは特に手足の怪我が多かったので、拝まれていた
のだろう、と。また藩政時代尾去沢銅山御台所(役所)より寄贈されたという半鐘
があったが、戦時中供出されて今はない。いつの時代かわからないが、尾去沢銅山
でつくり、奉納されたという金銅の仏像がある、と。また花輪町史には、次の記録
があるという、「浄土宗は徳川家康以来代々帰依信奉するところであって、しかも
鉱山開発につとめ、山法を定めて鉱夫身分の安定をはかり、浄土宗もために鉱山地
に昌栄を見たのであって、当円徳寺の檀家も尾去沢鉱山に多かったのもそのためで
ある。」と。 鹿角市史(第二巻上)に「尾去沢銅山の宗門改めは円徳寺が行うよう、藩の指示 があった」と書かれているが、なんで円徳寺がと思っていたが、円徳寺は永久沢か らはじまっていることでもあるし、一応これで納得、ということになった。 |