○渡部久さん(思い出) ※下新田、昭和14年入学。 私は昭和八年三月二日に生まれ、七才で田郡分校に入学し、六ケ年間、数人の先 生から勉強を学び、尾去沢高等小学校に一年間通学しました。そのような事は、私 達だけだったと思います。 先輩は高等科の場合、二年間尾去沢へ通学したと思います。と言うのは、私達の 高等科二年の時は、田郡小学校にも高等科が出来ましたので、田郡小学校で最後ま で学ぶことが出来ました。 ……以下略…… こうして渡部さんは新制中学の第一期生となって行くわけですが、私は田郡に高 等科が出来たことなど聞いた事もなく、全然知りませんでした。渡部さんの話しか ら考えると、高等科のできたのは昭和21年となり、翌年は新しい学制で新制中学と なるので、1年間だけの、いわば幻の高等科となるわけですが、それにしても終戦直 後の混乱期に、どんな理由があってつくったろうか、名称は何んといったろうか、 田郡分校高等科とでもいったろうか。 それはそれとして、渡部金作さんは、昭和27年1月13日町当局で新校舎落成式典を やったといっているが、それは関係者だけだったろうと思う。渡部久さんは、3月 2日落成式が盛大に行われた、その日は自分の誕生日でもあり、その夜中(3日午前 1時すぎ)自宅が火事になり、着の身着のまま雪の中にほおり出された日なので、忘 れられない日だといっている。私達もたたき起されて馳けつけたことをおぼえてい る。ともあれ3月2日は山かげ全部落挙げての祝賀会だったと思う(私の家には小学 生がいなかったので参加していない)。 こうして三ツ矢沢の学校に移ったわけですが、当時の子供達は引越しで難儀した こと、仮校舎が馬小屋で大変だった事など単々と書いている。あの蟹子沢から下り て行く一の坂の急な坂道を、佐藤良一さんが馬車も車もきかない、大きい荷物はア リの様に手を出しあって運んだといい、内田正男さんはオルガンを下げるのに苦労 したといっているから、本当の大きな物は、大人達が運んでくれたろうかが、机や 椅子は自分達で運んだろう。本当に難儀したろうと思うが、彼等の文章からは、泣 っ面は見えてこない。楽しんで生き生きと頑張っている姿が浮かんでくる。どんな 苦しかったことでも、時がたち思い出となる頃は楽しかったことに変っていく、に しても山かげの子供達のたくましさというか、生命力の強さといったものを、ひし ひしと感じる。 尾去沢は坂道が多いとはいえ、今は程んど舗装されている。学校に行くにしても、 三ツ矢沢は別としても遠くても歩いて10分か20分、それを親が車で送り迎えするの を見かける。またテレビなどで食べ物を粗末にするというか、遊び道具にするとい うか、グルメ番組かなんか知らないが、食べ物をもてあそんでいるようなのをみる と、道義者ぶるわけではないが、戦中戦後の物のなかった時代と重ね合せながら、 今世界中で飢えて死んでゆく子供が何万人といるというのに、そんなことにうつつ をぬかしていたら、やがて日本人もテロに狙らわれる、そんな気がしないでもない。 |