下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

 また横道にそれてしまったが、こうして学校は田郡から三ツ矢沢(中新田)に移 ったわけですが、もちろん三ツ矢沢学校史には、新しい学校の思いでも、廃校を惜 しむ声もたくさんあるわけですが、それは割愛ということにして、元山から田郡、 田郡から三ツ矢沢へと移る間の学校や地域の様子をうかがわせるものを重点に書き 出してみました。こうした思いでの一つ一つを自分の思いでと、つなぎ合せること によって、元山から三ツ矢沢までの学校の(地域の)流れが少しでもよみがえって くるのでは、と思いましたが、考えてみると、ただだらだらと書いているだけで、 どこに焦点があるかわからなくなったが。

 ともあれ、これを書きながら疑問に思ったことや、どうなったろうと思ったこと など、少し書いてみる。

○新しい三ツ矢沢の学校ができるまでの間、古い田郡の学校をそのまゝにして授業 ができなかったろうか、と思うのは、それこそ第三者の考えで、それ程旧校舎は危 険で急を要することだったろうと思うが。
 たゞ仮校舎を高田重雄さん(初代PTA会長)は、田郡集会所と中新田集会所といっ ているが、外の人の話しには田郡集会所は出て来ないから、高田さんの思い違いだ ろうか。また中新田の集会所というのは、川上徳次郎さんの馬小屋の二階を部落で は集会所として使っていた(工藤勝雄さん談)といゝます。また渡部金作さんが種 馬飼育所といっているのも、川上徳次郎さんの馬小屋のことだそうです(この頃か ら三ツ矢沢から馬の飼育が消えていったろうか、かつては馬産地として知られたと もいうが)。
 とにかく、いくら急を要したにせよ、馬小屋を仮教室として使うということは、 今では到底考えられない。当時の人たちのおゝらかさだろうか一刻も早く危険な校 舎から抜け出して、新しい学校をつくりたいという熱意だったろうか、ともあれ馬 といっしょに暮らしてきた当時の人達にとって、馬小屋は気にならない存在だった ろうと思う。

○学校建築を請負ったのは学校史では中村組、渡部金作さんは川又組といっている が、二・三聞いてみたがよくわからない。若しかして土地の造成と校舎建築は別々だ ったのか、今後の課題。という程のことでもないか(解体を請負ったのが中村組、 私の勘違い)。

○元山から三ツ矢沢の学校までと、何人もの先生のことが出てくるが、それは割愛 するとして、その中におっかない先生、きびしい先生もいるわけですが、アダナで 出てくるのは、それも二ツ、川口敬助先生だけです。「ケケ」と「チャンボ」です。 「ケケ」は「ケイスケ」をちぢめた「ケケ」であったと思います。「チャンボ」は チャンボ鶏(愛がん用の小さい鶏)のチャンボ(体が小さいので)ですが、これを 書いた内田農作さんと川村初男さんは私の同級生で、二人とも亡くなりましたが、 今もあの世で敬助先生に見つからないように、二人でこっそり、「ケケ」とか「チ ャンボ」とかいっているだろうか。
 いつの時代も先生にアダ名はつきものだが、アダ名で呼ばれる先生は、どんな先 生だったろうか。おっかない、こわい先生と、思う心の底には、敬愛の念とか親愛 の情とかいったものがひそんでいたのではないだろうか。そこが憎くまれた先生と 違うところではないだろうか。また名前で呼ばれる先生は、どんな先生だったろう か。皆さんも思い出してみて下さい。

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