○佐藤良一さん(思い出) ※下新田、昭和23年入学。 私は昭和二十二年四月(23年の誤記か)田郡分校に入学しました。全校生徒八十 数名、同級生二十一名、入学当時は終戦のどさくさで、食べるもの、着るもの等は、 現在のように十分という時ではなかった。ランドセルと言えば竹であんだもので、 三ケ月もたたないうちに、ふたがバラバラになってしまうなど、今だに気憶に残っ ています。靴という靴はなく、冬はから靴をはいた。雪の多い日などは、足が冷た く泣く思いもしたこともあった。夏は下駄だけであったので、石ころ道で下駄の消 耗も早く、途中で割れる事もしばしばあった。又雨の日は、下駄の鼻おがきれ、つ まさきで歩き、足が痛いので馬糞の上を渡って歩いたものだ。馬糞はスポンジのよ うに柔かく気持のよいものでした。 ……略…… その頃、田郡、下タ沢部落の人々が、尾去沢町の方へ移転して行き、級友達も次 第に減っていきました。そして四年生の春であったが、田郡分校が三ツ矢沢に下る ということになりました。 私達は新しい校舎で勉強出来ると喜んだものでした。 しかし新しい校舎が出来るまで、仮校舎で勉強しなければならなかった。仮校舎 は中新田の川上徳次郎宅の向いの馬小屋と消防ポンプ置場であった。 まず私達の仕事は、教材等の運搬から始まった。田郡から中新田までは、馬車も 車もきかず、どうしても人の手で運ぶしか方法がなかった。今は伐採されてなくな ったが、二本松(一の坂)の急な坂道を上ったり下ったりしながら、大きい荷物は、 アリのように生徒達が手を出しあって運んだのが、とても思い出になっている。古 校舎解体運搬は、父兄の人達も大変苦労されたことと思います。 仮校舎の教室は一・二年、三・四年は馬小屋、五・六年は消防置場と別れました。 私達の教室は、馬小屋であったため、造作に馬糞がたくさん付着して、とてもき たないものでした。川上ヒデ先生の指導のもとで、馬糞落しが始まりましたが、馬 糞は乾燥しているため、なかなかとれなかった。わらのタワシで、こすっているう ちに次第に溶けて赤茶色の水となり、背伸びしてやっていると、腕をつたわって腹 まで流れ、とても気持が悪く、はしゃぎ回ったことが思い出されてなりません。 そのうちに新しい校舎が出来上り、いよいよ新しい教室での勉強がはじまった。 塗たてペンキの臭いがプンプンする教室は、とても楽しかった。そして二年間勉強 して、私達も卒業となった。 ……以下略…… |