ということで、元山から出発して三ツ矢沢で廃校になる一連の流れの話しは一応
終りとするが、田郡の学校が中新田に移る頃は、私の家には誰も学校に行っている
ものがいなかったので、そんな話しがあるのも知らないで、というよりも、関係が
なかったというか、関心がなかったというか、子供達が馬小屋の仮校舎で勉強して
いたなどと知る由もなく(本当は知っていたろうと思うが、長い間に記憶からすっ
かり消えてしまった、というのが事実かもしれない)、軽井沢の方に移ってしまっ
たが、今こうして三ツ矢沢学校史をみると、先にケンケンガクガクの議論があった
というが、そうしたことも含めて、戦中戦後の暮らしの様子なども少しわかるので、
子供達の思い出と共に書いたみたい(全文でなく、一部省略しながら)。
先ず学校史によると、「新校舎の位置決定にはいろいろの論議が交された。田郡 部落ではこのまゝの位置を主張し、三ツ矢沢部落では位置変更を主張する。種々論 議の結果、田郡部落は人口流動(減少傾向)のきざしが見え、年毎に家財道具まで 整理して、山かげ、即ち本町の方に移転することから、位置変更となったわけであ る。三ツ矢沢地域は、田畑山林の私有地を持っている家が殆んど、交通不便とはい え、住めば都である。永住の地と定めている住民の事情を考えれば、三ツ矢沢校舎 建築は当を得た結論であった。」。 そして「昭和26年9月15日から解体作業がはじまり、翌1月13日に完成している。 工事は中村組が担当した」。という記事を総論として出発していくが、前に書いて あることゝダブルこともあると思うが、それはそれとして巻頭のあいさつや、思い 出に移っていくことにする。 |