下タ沢会によせて(覚書)

田郡から三ツ矢沢へ − 学校移転の頃の思い出 −

○工藤勝雄さん(巻頭のあいさつの中から)
 ※廃校当時の三ツ矢沢部落会長、中新田、大正7年入学。
 大正7年4月入学当時は、元山田郡下タ沢と戸数も沢山あり、生徒数は250人位と覚 えております。当時は、今の様に服とて無く着物、夏は下駄、冬はわら靴(編掛)。 下駄箱に入れて置いたわらじがこつこつ氷り、足が入らず控所の板に打ち付けて様 々足を入れたものです。
 何時の時代でも運動会は楽しいもので、運動場は蟹小沢の下の方にあり、今思え ば猫の額位の場所でしたが、爺さんからわらじを作って貰い、それを履いて走った 事は忘れられません。
 尾去沢小学校の運動会とか遠足と言えば、元山部落を通り、七曲を通ったもので す。製錬の煙にむせびながら人の足形のみの七曲、今思ってもぞくぞくする位です。  元山盛りには、採鉱課病院倶楽部駐在所有り、戸数も百戸といわれたそうですが、 今は昔の蔭もなく、何所にそんな家があったのかと昔が忍ばれます。田郡も百戸と 言われ、個人の家、社宅と沢山有った事を覚えて居ります。又上新田にも社宅があ りました。今場所は畑になって居ます。下タ沢にも社宅有り、学校も大変活気が有 りました。当時の校長は川口武哉と言って教育一点張りの先生で、私達は一番おそ れたものです。此の学校も私達三十九回卒業生を最後に分校になったのです。  昭和二十五年校舎老朽の為改築か移転かの問題が起り、将来を考えると三ツ矢沢 に移転すべきだと決った訳です。上中下から敷地委員が選出されました。私も最年 少で委員として参加する事になりました。ところが敷地を何所にするかが問題で、 上新田には田郡が付き、下新田には下タ沢が付き、お互自分の部落が近い方と争い 譲らず、最後として中央地と言う事で、現在の地に移転したのです。三十一年に独 立校となり……以下略……。
(工藤さんの卒業したのは、大正13年3月(大正12年度卒業生)で尾小100周年記念 誌の卒業生名簿によれば、第31回となっており、39回というのは工藤さんの記憶違 いと思われる。)

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