下タ沢会によせて(覚書)

再び運動場を拡張 − 郡長さんも見にきた運動会 −

 明治33年9月に運動場を作って運動会をやったことは先に書いたが、翌年部落総代 人が学校にきて、「昨年の運動会は種目も新しく(ということは、前にもやってい たろうか、それにしては、運動場もなかったみたいだが、たゞ尾去沢の記録には、 「明治34年全郡運動会に全員参加(猿賀野、大久保平)100周年記念誌」というのが ある)、生徒は勇壮活発で、一挙一動すべて規律が正しい。これは体育上訓育上か ら考えて、有益この上もない。父兄の立場から観覧する者としても非常に気持ちよ いものであった。これを実施するには相当の失費もあったと思うが、応分の寄付を しますので、毎年挙行してほしいものだ。この気持は全部落民の希望である」と申 し入れている。ということで、運動場の拡張にも取組み、三ツ矢沢からも応援に出 て200余坪の運動場を作ったのが、6月30日のことだったという。

 こうして10月21日秋季運動会を開催、元山、田郡、三ツ矢沢から寄付金23円を出 し、賞品やその他の用品は田郡の店の人の協力で予算の半額で済んだという。  当日は学務委員、村会議員、部落総代、一般父兄の出席も多く、満場人を以て埋 める状況であったという。このとき郡長も出席して、この盛況ぶりを見たという。 郡長といえば、当時は本当におエライさんであったと思うから、一段と盛り上った ろうと思う。

 ところが運動会のまっ最中頃から酒飲みがはじまり、このままにしておいてもい ゝのか心配になったという。当時はみんな鉱山に働きに行っており、休みといえば 正月に三日、お盆に三日、一年に僅か六日だけだったので、日頃の苦労をいやし、 気力を養うには、このようなときに思う存分喜びにひたる必要もあろうと黙認する ことにしたという。
 私達が子供の頃といっても、田郡の運動会のときの記憶はないが、高等科になっ て本校の運動会に出るようになると、お昼近くから酒飲みがはじまり、ケンカの1件 や2件はいつもあったものだ。その頃は山神さんのお祭りの翌日、5月16日が運動会 と決っており、鉱山も休みだったと思う。それが、づれてきたのは昭和40年代に入 ってからだろうか、と同時に?子供の教育上悪いから運動会で酒を飲むな、となっ たような気がする。
 金掘りと酒は切っても切れない仲、ではないだろうが、明治になって学校が出来 て、運動会をやるようになって以来、運動会はまた大人の楽しみ会でもあり、酒も 切れなかった。その酒が切れて酔いがさめた頃、鉱山もなくなってしまった。と、 それは冗談として、

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