下タ沢会によせて(覚書)

エライ人 − 郡長さん・小田島由義とその子供達 − 徳蔵・樹人・鹿角市のチャイム −

 郡長さんといえば、当時は小田島由義という人ではなかったか、と思って調べて みたら(鹿角のあゆみによる)、古沢義三郎(明治33年2月12日〜35年7月7日)とい う人で、どこのどういう人かわからない。
 なお私達年代のものには、「郡役所」という言葉が耳に残っていると思うが、い わゆる郡制というのは、明治政府がそれまでの大区小区といった区分を廃止、明治 11年に郡制を制定し、大正12年まで続いたが、同年4月1日を以て廃止したという。 が、郡長、郡役所はそのまゝおかれていたというが、これも大正15年7月1日廃止、その 結果、「郡」は単なる地理的名称として残されることになったという。
 鹿角におれる郡長は初代山田純(明11.12.23〜)よりはじまり、第19代小西為助 (大15.6.30まで)で終っているという。

 さて、郡長といえば19人いることになるが、私達が名前を聞き知っているのは、 小田島由義という名前だけで、外の人のことは全然知らない。
 この人は花輪の人だとばかり思っていたが、尾去沢の内田九兵衛(代々尾去沢銅 山役人をした家柄、下新田の内田家の一族か)の末男で、弘化2年(1845)生れ、 13才のとき花輪の小田島徳兵衛(御給人、酒屋(井桁屋))の養子になったという。 少年の頃から盛岡に出て文武の修行をし、19才のとき藩校作人舘に入学、戊辰戦争 のときは花輪御給人隊二番手惣締役として出陣している。鹿角のあゆみによると、 この二番手というのは、三ツ矢沢口先鉾、後、長内警衛、ということで隊長誰々と 書いていないが、次の行に大砲方頭役、内田慎吾とある。この人は第4代尾去沢村長 (明33.2.12〜35.7.7)をしている。この戊辰戦争のときにいろいろな役についてい る川口、沢出、青山、内田とかいう人達は皆、山かげ、あるいは山かげに関係ある 人達かもしれない。

 その後小田島由義はその才幹を認められ、官吏としても活動しているが、その経 歴は省略するとして、明治17年3月より19年9月までと、明治21年6月より30年5月ま でと、前後14年間鹿角郡長をし、また大正2年より8年間花輪町長をしたという。
 その長男徳蔵はダム決潰時の蝶々宮城佐次郎の後を受けて、昭和17年1月より21年 11月まで尾去沢町長(この人は知っている人が多いと思う)、二男の樹人(東京音 楽学校 − 現芸大の前身 − 卒業)は作曲家として有名。「おもちゃのマーチ」 「山は夕やけ」など皆さんご存知の童謡も多いと思う。また「鹿角小唄」「湯瀬小 唄」「花輪小唄」なども作曲しているという。

 今鹿角市では市内5ケ所(八幡平中学校・尾去沢支所・桜山公園・十和田支所・大湯支 所)にチャイムを設置(平成3年1月7日より)、1日4回時報を流しているが、このう ち2回は「おもちゃのマーチ」と「山は夕やけ」である(正午「おもちゃのマー チ」、午後4時「ふなっこどじょっこ(民謡、わらべ歌、豊口清志採録)」、午後6 時「山は夕やけ」、午後9時「お星さま(黒沢隆明作曲。鹿角出身の音楽家、東京音 楽学校卒。この曲は大正5年曙小学校に奉職していた時の作詞・作曲という。秋田師 範卒業後、一時小学校の先生をしていたのだろう。)。
 ちなみに「花輪小唄」の作詞者は尾去沢町長(小田島徳蔵町長の次)や県会議員 などをされた西道口の高杉重右衛門さんで、「路星」と号して中央の文芸雑誌「文 庫」や「明星(与謝野鉄幹主宰、明治33年創刊)」に短歌などを投稿しているとい う。
 なお、明治33年は元山小学校ではじめての運動会が開催された年であり、またそ の頃尾崎紅葉の「金色夜叉」が読売新聞に連載(明治31年から6年間)されていたと いうから、我が金掘りの先輩達は、貫一がお宮を蹴とばす話しなどは知っていたろ うか。

参照リンク:「鹿角の温故知新への旅」→「鹿角の近代人物伝」

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