この明治12年に新築した校舎は、明治39年9月まで使用した、と先に書いたが、と
もあれ開校当時の教育に対する考え方というか、環境というか、そうしたことは三
ツ矢沢学校史に譲るとして、とにかく「父兄ノ向学心乏シキ」状況から出発したわ
けですが、翌年から父兄の向学心がおこり、就学児童数の増加がみられたというが、
それでも児童数は35名、尾去沢の方(又新学校)は男31名女1名であったという。昭
和47年、三ツ矢沢小学校が元山に開校以来98年の歴史を閉じたときの児童数は男2名
女10名計12名。校舎、設備等くらべものにならないとはいえ、開校の昔にかえった
というべきか。今、母校100年の足跡をたどってみようとしたとき、移り変りゆくふ
る里の姿と共に時の流れを思い、今昔の感にたえない、というよりも、まさに感無
量というところである。
と、大げさな話しはこれくらいにして、またもとにもどって、明治12年に学校を 新築するとき、村当局にだめだといわれて、それならば元山の人達がお金を出し合 って学校を建てたというが、また明治33年9月、学校で運動会を計画したという、が その経費も運動場もなかった。鉱山も不況で父兄に負担をかけるも無理と考えて、 尾去沢村内の有力者に協力を求めようと思って、元山、田郡の人達に相談したとこ ろ、「この地域の子供達の運動会をやるのに、何の理由で他に協力を求める必要が あるか、自分達でやろう」ということで、翌日から50人の人達が出て運動場をつく ったという。当時の記録に「元山より30名、田郡より20名の人夫来り、牛頭天王山 側馬乗平の茨棘(しきょく)を剪除(せんじょ)して運動場をつくり、且運動会費 として金拾六円を醵(きょ)し、10月5日盛大なる運動会を挙行せり」ということ で、このことは同年12月6日発行の秋田新聞に掲載されて、全県下に紹介され、ま た12月20日の私立秋田県雑誌にも記載されたという。この運動会が大変に地域住民 から喜ばれたらしい、ということである。 明治12年の校舎は明治16年に改築したが、その後破損も甚しく、且つ非常に狭く なったというので、明治29年に校舎新築の計画を立てたが、村会に断られた。たま たま来山した鉱山主岩崎久弥にお願いして、32坪の校舎を寄付してもらうことにな った。それでも狭いので増築を再度村会に申し入れたが、この年は実現できなかっ たという。このときの生徒数78名。 明治32年になって益々生徒数が増えて授業ができなくなり、新入生の入学を中止 したという。たまたま来山していた三菱合資会社の副社長岩崎弥之助に、村長と助 役が頼みこんで300円の寄付金をもらうことになった。そこで元山部落よりは100円 を出して、明治29年に寄付をもらった校舎と今まで使用してきた校舎の一部を加え て増築することが出来たという。この年の生徒数166名。 |