とにかく下タ沢から掘り出した鉱石も、銅に化けて湊に運ばれてしまえば、一巻
の終りとなるわけですが、一つ忘れていた。尾去沢も明治になって三菱の傘下に入
り(明治22年)、熔鉱炉で鉱石をとかす近代製煉法に変っていったわけですが、そ
の出き上った粗銅(品位98%?位い )はタタミ半畳よりやゝ大きい感じで、重さは
170Kぐらいあった(斉藤竹三さんの話し、若干の出入はあった)という。それを一
時保管しておく倉庫を銅蔵(どうぐら)といって、資材課の管轄であったと思う。
この銅は索道(昭和32年12月末廃止)やトラックによって花輪駅まで運ばれ、大阪
製煉所に運ばれ、更に精製された(最終的には99.99%まで純度を高めることがで
きたという。大阪製煉所の所長や小名浜製煉所の社長をされた奈良喜蔵さんの話
し)。銅蔵という言葉は、牛で運んでいた時代から使われていた。尾去沢の製煉は、
昭和41年3月19日熔鉱炉の火が落された。 それは、昭和40年代に入ってからだったか定かでないが、製煉のレンから火が消 えて、鉱石も水でとかすようになった。ということは、常用漢字で育った世代が社 内で力をつけてきたとみるべきか、習った字より知らない漢字力低下の石頭とみる べきか、ともあれ製煉は製錬になり、熔鉱炉は溶鉱炉になった(ちなみに鉱山の弘 報編集部で昭和39年1月1日付けで出した「鉱山のしおり」ではレンもヨウも火を使 っている)。 その製錬で思い出したが、製錬のカラミが水砕カラミになったのは、いつ頃だっ たろうか。私が兵隊に行く頃(昭和18年1月)は真赤に熔けたドロドロのカラミを獅 子沢ダムの堤防に捨てていた。そのカラミが夜空を赤く染めて、きれいだった。 「花輪・尾去沢の民俗」の中に、次のような記事があった。「製煉のカラミは、も とは電車で運んで沢に捨てていたが、昭和17年込むから水砕カラミにして捨てた。 水砕カワミは、熔鉱炉から出てくるカラミに水をかけると粒状になり、処理しやす くなったが、大量に水を使用しなければならなかった。」と、それは真黒の少し粒 の大きめの砂だった。 |