下タ沢会によせて(覚書)

五十枚と尾去沢という地名のこと

 余談:貞享(じょうきょう)は5年までで(1684〜16881)、途中から元禄(1688 〜1704)に変っている。熊谷治兵衛が四ケ山を請負ったという貞享四年は丁卯(ひ のとう)の年で、子の極月(ごくげつ=12月)まで10ケ年ということは、卯、辰、 巳……と数えていけば、10年目は丙子(ひのえね)となり元禄九年(1696)となる。
 この貞享という年は、元年(1684)に日本人(渋川春海)の手による初の暦 (貞享暦)の採用が決定され、翌年から宝暦四年(1754)まで使われ、次は宝暦甲 戌暦(ほうりゃくこうじゅつれき)となり、寛政九年(1797)まで、次いで寛政暦 となり天保14年(1843)まで、次は天保暦となり明治六年太陽暦に更められるまで 続いた(この新暦になったときのことは、27頁にも書いている。)。
 また、この尾去沢という地名が出てくる貞享四年は将軍綱吉が生類憐令を出した 年であり、金掘りといわれた私達の先祖は、犬の肉など普通に食っていたのではと 思うので、その影響はどうだったろうか、そして10年たつと元禄九年となるわけだ が、その前年の元禄八年は陸奥一帯が大凶作となり、特に津軽と南部の被害が甚大 で、津軽領では3万人、南部領では5万人の餓死者を出したといわれている。この年 江戸の中野に16万坪のお犬様の飼育場が出来たといわれるが、わが鹿角もお犬様ど ころではなく、生きるのに必死だったろうと思う。

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