御給人、今、稲村橋のかけ替え工事が進められているが、その少し下った所に、
御給人吉田新六がこの橋をかけた、という標柱が建っているが、それを見て、尾去
沢ではあんまり聞かないので、御給人ってなんだろうと思っていたが、「花輪町史
編纂資料、昭和47刊」をみていたら(その頃パラパラッと見ておしまい、30年も前
のこと、記憶にあるはずがない)、栗山文一郎さん(故人、茜染・紫染の伝承者)の
書いた一文があった。
「御給人とは、盛岡藩領内各地に居住し、其の所代官に管掌される武士のことであ り、広義では直臣であり藩士であることには違い無いが、盛岡御城下の藩士 − 諸 士ともいう − とは、身帶帳(給禄簿)も別冊となっており、他藩でよく謂う郷士 のことであり、その身分は幾分低く見做される。古くから功績によって取立てられ た者もあるが、富裕な百姓町人の中から藩の財政難打開に協力、多額の献金物納な どによって士分の資格を与えられたもの、また逐次禄高のふえた者も少なくない。 従って、たとえ禄高は低くとも、経済的に苦しむなどと云う事は殆んどあり得な かったと想われる。ただこれら給人の中では、もう一段上の盛岡御城下の士に登用 されることが、ひとつの憧憬であったようだ」といっている。 吉田新六は石高は50石といわれているが、富裕な階層に属する御給人であったか もしれない。今も花輪の旧家として続いているのではと思われるが、それは花輪の 人の持分として…… |