さて話しはどっちが本筋かわからなくなったが、我が相馬家の相馬の殿様説も消
えてしまったし、壬申戸籍もなくなったし、残るはお寺の過去帳となるが、菩提寺
の尾去の長泉寺も大正5年の火災により焼失、過去帳も共に焼けてしまったというこ
とで、先祖のたどりようもなくなったが、それはそれとしてやむを得ないとして、
皆さんも今のうちに先祖のことなど調べてみられたらどうだろうかと思ってみたり
している。すでに調べられている人もあると思うが、たゞ今回、誰それさんの家は
こうだった、と書いておきたいと思いましたが、間に合わないでしまいました。
さて、我が相馬家はどこの馬の骨かわからなくなってしまったが、いつの頃から か、下タ沢に住むようになったのは事実であり、その下タ沢はいつ頃から歴史に登 場してくるか、といえば少し大げさですが、何にかそんな言葉の出てくる、いわゆ る鉱山に関する古文書といったものはないか、とは思っても、どんなものがあるか 見当もつかない。尾去沢の代表的な山先(今でいえば、技師長というところか)は、 青山、沢出、川口、奈良、岩尾の五家といわれており、そうした家にはそれぞれ古 文書など残されていると思うが、見ることもなく、また見たとしても筆でさらさら と書かれていると思うので読めもしない。というわけで、今手許にある尾去沢鉱山 のことを書いた本としては、「麓三郎著、尾去沢・白根鉱山史、昭和36年刊」くらい であり、また尾去沢の事が出てくるのは、「鹿角市史」とか、少し古くなるが、昭 和44年に刊行された「鹿角のあゆみ」(この本は昭和39年鹿角郡社会科教育研究会 が社会科の資料編として出した、鹿角の歴史の改訂版)よりなく(外にもいろいろ あると思うが)、これらを頼りに「下タ沢」を探してみたい。 また江戸時代に尾去沢を尋ねてきた文人というか紀行家というか知らないが、そ うした菅江真澄(すかえまかみ)、松浦武四郎や南部の最後の殿様が尾去沢に来た ときお供してきた上山守古という人が書いた「両鹿角扈従日記」などがあり、そう した人の書いたものを拾い出しながら話を進めてみたい(外にいろんな人の書いた ものがあるようですが、私の手には及ばない)。 なお、上山守古の日記は、「こじゅう」とも「こしょう」とも読むようです。 「両鹿角」というのは「鹿角のあゆみ」によると、「南部藩は領内十郡(北、三 戸、二戸、九戸、鹿角、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀)を三十三通にわけ、一通 に一代官所を置いたという。鹿角は花輪通り(田山、湯瀬、小豆沢、鏡田、狐平、 神田、高屋、花軒田、土深井、三矢沢、尾去沢、川部、大里、花輪、甘蕗、松舘、 石鳥谷、長内、三ケ田、白欠、長牛、夏井、長嶺、谷内の24ケ村(今は田山は岩手 県))、毛馬内通り(柴内、乳牛、鶴田、新斗米、高市、上台、小平、小枝指、冠 田、室田、松山、大欠、石野、瀬田石、毛馬内、中野、関上、腰廻、芦名沢、長者 久保、沢尻、古川、浜田、草木、一本木、寺坂、倉沢、宮野平、風張、大湯、根市、 箒畑、蟹沢、万谷、長沢、荒川、牛馬長根、鴇(ときと)、高清水、赤坂、大地、 小坂、濁川、野口、鳥越の45ケ村)の二通りに分けられていた。」 したがって両鹿角とは、花輪通りと毛馬内通りのことで、鹿角全体のこととなる。 その後これらの町村は合併を繰りかえし、昭和47年4月より、現在の鹿角市と小坂町 になる。 |