下タ沢会によせて(覚書)

再びわが家のこと − 母がもらった絵 −

 さて話しはまた元にもどるが、私達の親類は角館や東京方面にもいるわけですが、 戦後次第に音信が絶えて、今ではわからなくなってしまった(戦時中東京の方から 疎開してきていた子供もいたというが)。本家(相馬与一郎)には古い本や文書な どたくさんあったというが、東京のオドさん(相馬敬四郎)がみんな持って行って しまったとかいわれて、どんなものがあったのか全然わからない。また私達の伯母 (幸子の母)が小さかった頃はタンス何段にも刀がざくざく入っていたというが、 それもどうなったかわからない。たゞ私が兵隊に行くまでは(昭和18年)、義夫 (本家)の家の床の間に刀が2本立てかけていたのをおぼえている。幸子の家にも1 本あったような気がする。私の家には何にもなかったが、3尺四方くらいの紙に花 や鳥をかいた絵があった。いわゆる花鳥画というのだと思う。7〜8枚くるくる丸め て押入れの棚に上げていたのをおぼえている。私が小学校の高学年の頃だったと思 う。その頃京都の方から来たとかいう呉服物の行商人が来て泊った(私の家にはよ くそういうような旅の人が泊るものだった。その人も何度か泊って顔なじみのよう な気がする)。私の父が、こういうものがあると出してみせたら、いゝものだ、と いったかどうかわからないが、京都の方に持って行って表装してやる、といって持 って行った。私も側にいて話を聞いていたから、くわしいことはわからないが記憶 があるが、それっきり絵も返ってこなければその人も来なくなった(何にか事情が あったのか)。その絵は、私の母が別家になるときに、本家のババ(私達の祖母) がお前には何んにもやるものがないから、これをやるといってもらったものだ、と いつか話していた。今テレビでやっている「何んでも鑑定団」に出すようなもので はなく、旅の絵師みたいなのが、宿賃がわりにかいていったものだと思うが、ボタ ンの花やキジ?などもあって、色彩があざやかできれいだった記憶がある。絵とし ての価値はないかもしれないが、惜しかったと思っている。

 呉服の行商人といえば、能代からくるとかう、たしか佐久間さんとかいう人が いて、定雄さんの家によく泊った。来ると学校にきて面白い話しをしてくれては、 子供達みんなに鉛筆などくれた。話しの中味は忘れたが(こっけいな話しだったよ うに思う)、自由自在に屁をたれることができるという特技?を持っていた。当時 の学校はおゝらかなもので、授業時間をさいて、そんな話しを聞かせていた。あの オッカネエ敬助先生もニコニコして聞いていたように思う。

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