私の家の後ろから稲荷さんにかけて数本の杉の大木があった。松の木も1本あっ
たが、私が小学校の頃、大風で倒されてしまった。もう少しで私の家にぶっつかり
そうになって倒れていたのをおぼえている。私の家の後ろを真直ぐ上って行くと、
お寺の方からくる道路に出る少し手前にも、大きな杉の切り株があった。稲荷さん
のまわりにもあったことは先に書いたが、その木は何に使ったかは別として、私の
父は、若い頃木引きをやったとかで、大きい木引き鋸が縁側の隅に2〜3丁立てかけ
てあった。隣り(義夫の家)との間の畑にしているところで、大きい木を斜めに立
てかけて引いていたのをおぼえている。稲荷さんやお寺とは関係ないだろうか。
その下タ沢の杉木が切られと聞いたのは、昭和39年であったと思う(何月か記憶 にないが、夏場だった)。鉱山と下新田部落との間で何にかの交換条件で、下新田 にやることになったとか、その話しを聞いて、私はあの杉の木は、是非残しておき たいものだと思った。 尾去沢は、鉱山が発見された頃は、こうした大木が欝蒼と繁っている山だったん だ、という証拠にもと思った。 私は高等科になると、葬式や法事があると、よくお尚さんを迎えにやらされた。 いつだったか、尾去のお寺(長泉寺)のお尚さん(先々代)が若い頃、元山を通っ て石切沢部落(今のマインランド坑口の上にあった部落)の上に出て(五十枚と湧 上り山の間の谷)、少し下ると大きい杉の切り株があって、脇に冷たい水が湧いて いたので、よくその切り株に腰を下ろして、ひと休みしたものだ、と話していたこ とがあったが、明治の末頃のことだろう。私達がカゲといっていた町側にも、大木 があったんだナーと思った。私達が知っているのは、赤くはげた山だったが、鉱山 の発展と共に製錬用などに切られたり、煙のために枯れていったろう。嘉永2年 (1849)尾去沢にきた松浦武四郎がその鹿角日誌の「七曲」のところで「此辺り兀 山(はげやま)にて草木なし、只上に至りて少々の松の木有のみなり」と書いてお り、それから10年程して(万延元年・1860)、南部の殿様のお供をしてきた上山守古 は「甚タ聳えたる山へ七折に造りたる道也一帯此沢中は草木なく皆赤土山也是は 白(ハク、金偏+白)焼之烟之為ト聞く白(ハク、金偏+白)ニはかならす録盤之 気有之故ならん」と書いている。今から百四〜五十年前(明治になる10〜20年くら い前)のことだが、私達は明治に入って近代的製錬が行われるようになって急速に 禿げたのか、とも思っていたが、考えてみれば、尾去沢鉱山発見以来、銅を吹くた めに火を焚いていたろうから、徐々に禿げていって、気がついたら禿山になってい た、といったところだろう。この禿山も製錬廃止(昭和41年)後、実生の松が次第 に生えて(マインランドの後ろの方は、昭和42年頃植林した)、七曲りの跡もわか らなくなり、山の姿も変ってきた。それはそれとして、それだけに下タ沢の杉の大 木は、後世に残したい、今でいえば大事な遺産であった。 この下タ沢の杉の木が切られるという話しを聞いて私は、話しが決ってしまった のに、私のようなものがとやかくいっても、どうにもならない、せめて写真だけで も写しておこうと思い、4時に仕事が終ってから写真機を持って急いで下タ沢に行っ た。下タ沢は谷間で日の落ちるのも早いので、露出不足で暗い写真になってしまっ たが(腕のせいもある)、こわれかかった稲荷さんと共に最後の姿となってしまっ た。 稲荷さんはその後解体されて、元山会の人たちが蟹沢に元山神社をつくるときに 使われたとも聞いたような気もするが、私は元山会に入っていなかったので、その 辺のことはわからない。たぶん稲荷さんも元山神社に合祀されたのだろう(合祀そ れている)。 |