GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

蒙古襲来H
 ここでわからなかったのは、江逝(ようせつ)の軍民の江逝だ。 場所の名前だとは思ったが、どこなのか、まともな中国の地図も持っていない。 がやっと見つけた。 上海の北隣りに江蘇省があり、南隣りに淅江省があり、東支那海に面している。 だから港がいっぱいある。こゝで日本遠征の軍船などがつくられていただろう。 江蘇省と淅江省、いわゆる江淅の軍民だ。
 
 江蘇省で思い出したが、ここに蘇州という港があった。 戦線が次第に拡大し、軍歌一辺倒の時代に入ってゆくが、 はじめの頃はまだやわらかい歌が歌われており、日華親善映画などもつくられ、 「支那の夜」や「蘇州夜曲」なども盛んに歌われた。 支那の夜は昭和13年だと思ったが、 その頃(尾去沢)鉱山の労働課に大中(大館中学)出の山本さんという歌の得意な人がいた。 この人が早速おぼえてきて、昼休み、皆で「シーナノヨール」と習った。 私は青年団に入ったばかりだった。 ある月の例会の後、皆で何にかやろうとなった。 それで私の番になった。新入会員の悲しさでことわれない。 そこで私は上手下手はともかくとして、おぼえたばかりの支那の夜を歌った。 そこに三浦という青年団の指導にも熱心な(コチコチではない)分校の先生がいた。 その歌いい歌だから子供達に教えるから、私にも教えろ、となった。 そこで、私が先生になったが、生徒達に教えたかどうかはわからない (この先生のことは、また機会があったら書きたいと思う)。
 蘇州夜曲は、昭和15年だったと思う。 この年は日独伊三国同盟や大政翼賛会ができ、紀元2600年記念式典が行われたり、 「ぜいたくは敵だ」などのスローガンが叫ばれはじめる。 そうした中でこの歌は歌われた。
 君がみ胸に抱かれて聞くは、夢の船歌恋の歌、水の蘇州の……と続くような気がしたが思い出せない。 考えても無駄だ、カラオケの本でもさがした方が早いかもしれない。
 
 ともあれ蒙古の襲来は、日本にとっては天下をゆさぶる大事件であったわけだが、 一方蒙古の民衆にとっても、どれだけ苦役であったことか。 考えてみれば、高麗も可愛そうだ。属国の立場だったろう。 兵隊は出さなければならない、舟は造らされる、兵糧は準備しなければならない、 合浦は前線基地にされる、多くの死者を出す。 日本も対馬や壱岐など島々を踏みにじられて「ムゴイ」の言葉を今に残す。
 
 それにしても、博多の人達は大変だったろう。 舟の残骸は片付けなければならない、死体も片付けなければならない、 それも首のない(武士達は手柄の証しにするために首をチョン切っていたろう)、 がそれをやらなければ、海の仕事ができない。 その慕いを埋めた後が今も蒙古墓として残っていると。 彼等はきっと無惨な死をとげ、 国へも家族のもとへも帰ることのできなかった人達の後生を拝んでいたろう。 と私が思うのは、話しは飛ぶが、昭和14年5月から9月にモノンハン事件というのがあったことは、 皆さんご存知のことですが、 このときソ連の機械化部隊に日本軍は全滅の憂き目に会っている。 その戦死公報が連日のように入っていた12月12日、 北海道猿払村の海岸から800米くらいにある小さな島に、 折からの嵐に進路をあやまって、 カムチャッカの方からウラジオを目指していたロシアの船が座礁した。 夜中にズブぬれになって助けをもとめてきた人達に、猿払村の人達は稚内に救援を求め、 大きい船を派遣してもらい、必死の救援活動をする。 その後、昨日は2人、今日は1人と、連日海に呑まれた人達の遺体が浜に打ち上げられる。 その度、猿払村の人たちは火葬にしてお寺の墓地に葬って(その数10余体とか)、 毎年12月12日を命日として拝み、三回忌・七回忌と法要を行ってきた。 いよいよ来年は三十三回忌というときに、母国の石で慰霊碑をつくろうとなった。 この話しはまた次の機会として、 だから私は博多の人達もきっと供養してくれていたろうと思う。

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