鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
蒙古襲来G昭和11年といえば、私達は高等科の2年生でしたが(中沢ダム決潰の年)、 その年の文部省「小学国史教師用書(師範学校用国史教科書)」 中巻74〜75ページに「国難と挙国一致」として次のような文がある。 「かくして欧亜の天地を席捲して向うところ、かつて敵なかりし元主も、 さすがにこの敗戦に懲りて、遂に我国を不征国のうちに数へ、 一指をだに我が土に染め得ざりしは、さきに泰時・時頼が善政を布きて人心を援け、 加ふるに勤倹貯蓄に力めて財政を豊富ならしめしより、一旦この国難に逢ふや、 鎌倉武士は忽ちその忠勇をあらはし、またよく莫大の軍備を支へ得たりしがためなり。 されどこの勝利は主として挙国一致熱烈なる愛国の精神にまつところ多し。 かしこくも亀山天皇は宸筆の願文を伊勢の神宮にさゝげ、 御身を以て国難に代らんことを祈りたまひ、時宗また一身を抛ちてこの難局に善処し、 将士の奮起は素より、国民悉く義憤の精神を発揮し、 庶民は兵食武具の運搬に力めて、しきりに勇士を後援し全国の社寺は敵国降伏の熱祷をさゝぐるなど、 かかる愛国精神の発揮がやがてこの未曾有の国難をはらひ、国威を宇内に発揚せし所以なり。 しかしてこの大勝がわが国民の自覚を促し、神国の観念を強めたるの効、頗る大なりとすべし」。 こうした理念で私達は教育された。したがってかどうかはわからないが、 第三次日本遠征計画があったことなど習いも知らなかった。 がこの第三回日本遠征計画は不発で終わったようなので、教える必要もなにかったかもしれない。 日本側にもこの二回目の蒙古襲来があった後、再び吸収の御家人に 「異国征伐」を命じたというが、これは実行に移された形跡はないという。 神国日本論はともかくとして、お互いに余計なことをしなくてよかったと思う。 とにかく胆カメの如しかどうかは知らないが、我が方の時宗は、 この3年後、弘安7年(1284)4月死んでしまう。33才。 一方蒙古の方の第三次日本遠征計画は、日本の弘安9年(1286)正月、 「日本は孤遠にして島夷、重ねて民力を困(くるし)む」として中止されたというが、 この前年暮、皇太子真金(ちんきむ)の死が大きな影響を及ぼしたのではないかともいうが、 いろいろに国内事情があったのかもしれない。 「元史劉宣伝」の一節に、「連年日本の役、百姓は秋戚(しゅうせき)し、 官符は擾壞す、今春停罷(ていい)す。江逝(ようせつ)の軍民、 歓声雷(いかずち)の如し」とあると、 この文を見ても、私には何が何んだかわからないが、 これは日本遠征のとりやめを聞いて、万歳を叫んで喜ぶ江逝の民衆のさまを記したものだという。 こうしてフビライは1294年(永仁2)79才で死んだというから、 これで完全に蒙古襲来も終止符をうたれたということだと思う。 |