GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

蒙古襲来F
 とかくこうして蒙古軍は、博多におしよせてくる。 これをむかえ打つ我が軍は10万とかいわれる (昭和38年に陸上自衛隊福岡修睦会発行の「本土防衛戦史 − 元寇」によると、およそ16,000人 (騎乗武士5,300騎、従僕などの補助戦闘員を加えたもの)という)。
 今度は防塁もある、武士は大丈夫だ、まかしておけ、 と胸をたたいたかどうかは知らないが、博多の人達は怖かったろう。 何せ先頭は博多についても、最後尾はまだ東支那海だとしいう大船団だ。 頼山陽にいわせると「海を蔽(おおい)て来る者は何の賊ぞ」だ。 彼等は必死になってお願いします、と陣屋に行ってニギリメシを作ったり、 ミソ汁を作ったりして頑張ったろう。
 
 6月はじめ、先陣は博多に到着するも、西の今津大原から東の香椎付近まで、 延々20kmに及ぶ高さ1丈3尺の壁を見たという (私の持っている図面では、場所はわからなかったが、最終的には100kmというが、 その頃実際にはどれくらい出来ていたろうか)。 波打ち際にはびっしりと乱杭が打たれ、石築地の上には何千本もの旗がひるがえり、 楯がすき間なく並べられている。 彼等は上陸を断念し、能古島の方に行くわけだが、 こうした2ヶ月近く攻防戦がくり広げられる。 我軍は、小舟に乗って敵船に夜襲をかける話しや、 河野道有が帆柱を倒してハシゴにして敵艦にのぼつて敵の大将をとりこにした話しなど、 小学校で習ったと思うが、こうして閏7月1日(現行の太陽暦で8月23日)、台風が来る。 中心示度950ミリバール(今はいゝ方が違うようだが)、最大瞬間風速55米。 どうして計算したか知らないが、大型台風だ。 博多の人達は家をこわされ、屋根を飛ばされた人もいたろうが、 海を見れば埋め尽くしていた敵艦の姿もない。 博多の人達は本当に神さま仏さま有難うございます、と手を合わせて、 浜辺にへたりこんだろう。
 
 このときの蒙古軍は、東路軍・江南軍合せておよそ14万人、 私達は生きてかえる者3人と習ったが、諸書により違うようだが、こんな記録があると。
「元史」日本伝には「十万の衆、還ることを得たる者三人のみ」。
「高麗史」は、4万のうち生還者は19,379人と誌し、
 元軍については「元史」世相本紀には「十に一、二を存す」と、
 阿塔海(あたはい。元軍の主将)伝には、「師を喪うこと十に七、八」と、
とにかく、潰滅的な被害であったことだけは明らかである、という。
 
 私は、先の廣瀬中佐の正気の歌の次に、江南軍の中味について、少しふれようと思っていて、 つい書き落としてしまったが、それは、
 
 この南宋をほとんど無傷のまゝ接収したフビライ政権にとって、 その戦後処理のうち、頭を痛めた問題の一つは、 40万人以上にのぼる旧南宋軍の職業軍人達であったという。 失業したまま放置すれば、社会不安の原因となる。 実践力のある者は、西方・北方地域での戦線や広東、広西の鎮定活動にふり向けた。 それでも残った老残兵については、本人の希望によって海外派兵にあてた。 江南軍の10万はその最初のテストケースであったという。 彼等はこれといった武装をしていた形跡はないという。 たずさえていたのは、入植用の農機具と種籾などであった。移民船団に近かったという。 フビライは日本を占領して、彼等を移民させるつもりだったかもしれない。 また多分に反乱の危険がある旧南宋の軍兵を日本に追放とようとした、 という見方もあるようだともいう。 そもそもフビライは何んの目的で日本を征服しようとしたのか、 となれば、私にはよくわからないが。
 
 ということだが、もしこの台風がおこらないで、蒙古軍が勝って、 この10万の江南軍が九州に上陸して百姓をはじめたら、 日本はどういうことになったろう。私達は小学校の5年か、6年のときに、 日本は神様の国だ、ということで、国史の時間に御神勅なるものを暗記させられた、 「トヨアシハラノミズホノクニハ……何んとかかんとか」、すっかり忘れてしまった。

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