鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
蒙古襲来Eそれはさておき、第二回目の蒙古軍は東路軍と江南軍の二手にわかれて攻めて来た。 東路軍は蒙古軍15,000人、高麗軍10,000人、梢工(しゃおこん=舵手) ・引海(いんはい=水先案内)・水手(かこ)17,000人、糧秣12,300碩(せき=1碩は100斤で60kg)、 艪舟900艘。 江南軍は兵力10万人、大小艦舟3,500艘、糧秣40万斤。 東路軍は5月3日、高麗の合浦を出発、 6月15日に江南軍と壱岐島で落ち合うことになっていたという。 江南軍は慶元(明州、今の寧波(にんぽー))前方の舟山島の定海に集結していたが、 この約束にもかかわらず6月18日にやっと日本に向けて進発したという。 遅れた理由は、主将の阿刺罕(あらかん。阿刺干)が出発間間際に急病になったため、 阿塔海に代わるなどしたためらしいという。 壱岐島に到着した東路軍は暴虐の限りをつくす。 捕らえられた妊婦は腹を裂かれて胎児を鷲掴みににされ、若い娘達は犯され、 抵抗する女たちは手に孔をあけられ、縄を通して地面を引きずりまわされたという。 「ムゴイ」という言葉は、このムクリ(蒙古)、コクリ(高句麗)の両語から合成された言葉である、 とこの島では言い伝えられているという。 私達は、何気なく「ムゴイ」という言葉を使っているが、 この壱岐の島から伝わっててきたのかもしれない。 なお、佐賀県の方では、「無理矢理」という意味で「ムクリ・コクリ」というとか。 これも同じかもしれない。 こうして日本は、博多に石垣を築いていた頃、フビライは南宋を攻めていた。 1276年2月、南宋は滅亡するわけですが、その最後の宰相は文天祥(ぶんてんしょう。1236〜1283) であった。彼は南宋滅亡後も各地にのがれ、義勇軍を作って抗戦するが、 ついに捕らえられて降伏をうながされても、フビライに仕えることを潔しとせず、 「正義の歌」を作って刑死する。 1282年(第二回蒙古襲来の翌年)。南宋が滅亡してから6年後。 戦前日本では、この南宋に忠節をつくした文天祥は大いにもてはやされ、 私達もこの文天祥の話しは高等科の頃少し習ったような気がする。 この文天祥の正気の歌は「天子正気有り……」ではじまる長い詩であったと思ったが、 その冒頭の句も天子正気有りであったかどうかも、今は資料もなく思い出せない。 幕末の水戸藩士藤田東湖が「文天祥の正気(せいき)の歌に和す」 という詩をつくったことは皆さんご存知のことと思いますが、 それは「天地正大の氣、粹然(すいぜん)として神州に鍾(あつま)る。 秀でては、不二(ふじ)の嶽(がく)となり、巍巍(ぎぎ)として千秋に聳(そび)え……」、 と続いていて、日本の忠臣義士の事跡を歌っていく。 蒙古については「忽(たちま)ち龍ノ口(たつのくち)の劍を揮(ふる)ひ、 虜使(りょし)、頭足分(わか)る。 忽ち西海の颶(ぐ)を起し、怒濤(どとう)妖氛(えうふん)を殱(つく)す……」。 楠正成の子別れは「或は、櫻井の驛(えき)に伴ひ、遺訓、何ぞ殷勤(いんぎん)なる……」。 そして最後の結びは「死しては忠義の鬼となり、 極天(きょくてん)皇基(こうき)を護(まも)らん。」 となっている。 かの軍神といわれた廣瀬中佐にも正気の歌というのがある。 こちらは「死生命有り論ずるに足らず」ではじまり、おなじように歴史上のことを述べ、 最後は「七たび人間に生まれて国恩に報ぜん」と結ぶ。 この思想の流れが昭和になって、どう発展していったか……。 |