GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

32蒙古襲来D
 この蒙古の襲来は、日本を震撼させた大事件だったと思う。 私は鎌倉幕府は全国に号令して、博多にかけつけて防塁を築け、となったかと思った。 となれば、我が尾去沢の金掘達も腕に覚えのタガネと石頭を腰にさし、 モッコ(そんなのあったかナ)をかついでかけつけたか、と思ったが、 動員令は九州、四国、中国方面だけだったようだ。
 ちなみに石頭(せっとう)はフランス語だ(阿仁鉱山史)という。 尾去沢にも石頭節というのがあるが、するとこの歌は、からめ節などよりずーっと遅く、 明治になる頃フランス語が入ってきて出来た歌かもしれない。 となれば、石頭はその前は何んと言っていたろうか。 タガネは単にタガネとか掘タガネなどと言っていたろうが、 この金鎚は何んて言っていたのか知っている人は教えて下さい。
 
 今、崩れた石垣の写真を見ると、円い石(角のない大きさ、形、様々だが)を積み重ねている。 城などの石垣は別として、昔は一般の石垣はこれが主流だったかもしれない。 私の父は、これを玉石と言っていたと思う。 どこそこの玉石と言っていたと思う。 どこそこの何々さんは、玉石を積むのが上手だ、とか言っていた。 そうした石垣を積むことを仕事にしている人を石屋さんと言っていたように思う。 違反個人そうした仕事をしている人はいなくなって、今、石屋さん (というのは、私達年代の人達だけなのかもしれない)といえば、 何々石材店などと言って、墓石や記念碑など石を加工して作る人達を言うようになったと思う。
 
 (尾去沢)中学校から市街地にくる道路は、(中沢)ダム(昭和11年11月) 後の復興計画の中で出来た道路だが、 その石垣は四角に加工された石をコンクリートを接着剤にして積み上げている。 今はほとんどこういう石やセメントを固めた人工の石を使っている(山から切り出した石は、 「間知石(けんちいし)」)、コンクリートの人工の石は「ブロック」と言っている (米村組内田さん)。
 だから裸の石といえばおかしいが、コンクリートのない時代は、玉石を積むのには、 それなりの技術がいったろうと思う。
 私は小学校の5〜6年生(昭和8〜9年)の頃、花輪の父の実家に一人で遊びに行けといわれい、 道順を教えてもらった。 稲村橋を渡って大堰に突き当たったらそのまゝ堰に沿って下り、 家々にかかっている8番目の橋を渡ってそまゝ真っ直ぐ町を横切って行けと。 その8番目の橋を渡るとすぐ左側は1米くらいの高さの石垣で、 当時では珍しい玉石をコンクリートで固めていた。 それが8番目の橋を確認する目安となった。
 
 セメントはギリシャ・ローマ時代から使われていたというが、今使われているセメントは、 1824年(文政7年、シーボルトが長崎に鳴滝塾を開き、西洋医学などの教授や診療をはじめる。 佐藤一斎が言志録を刊行し、この頃江戸両国の花屋与兵衛がにぎり鮨を創案した、という)、 イギリスで完成されたという。 日本では1873年(明治6年、太陽暦の使用開始、徴兵令公布、征韓論おこる)、 東京深川の官営工場ではじめられ、民間では1881年(明治14年、 首斬り浅右衛門が斬首廃止で廃役となり、以後刀剣鑑定に仕事を替える)、 山口にセメント製造会社が設立されたという。後の小野田セメント。
 
 博多に防塁を築く話しがセメントの話しになってしまったが、 第一回の蒙古襲来から第二回目がくるまで、7年くらいあったわけだが、 こうして日本では、防備をかためながら相変わらず敵国降伏の祈願を続けていただろう。
 去る(平成23年)10月4日、鹿角神社総代会の研修ということで、 八戸の南部一の宮という櫛引神社を参拝した。拝殿に入って神主さんに拝んでもらっていたときフト、 上を見たら「敵国降伏」という金文字、金縁の障子1枚くらいの大きさの古い額が目に入った。 どこかで見たことがあるような気がして取りあえず写真を写そうとしたら、 私のバカチョン、電池切れ、カメラが動かない、 アヤー困ったと思っているうちに神主さんの説明を聞きもらしてしまったが、なんでも250年くらい前、 南部の何代目かの殿様が九州に行ったとき、模写してきて作らせたものだとか、 今頃こゝで「敵国降伏」にお目にかかるとは思わなかった。

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