GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

蒙古襲来C
 また話しは横に流れてしまったが、元にもどって、幕府は異国征伐に参加できない者は、 博多に参集して防備の石塁築造に当たれ、と命令したという。 これは実際にはかなり大規模に着手され、3月頃から始められた。 急を要することなので、8月には完成する目標であったらしいが、 実際にはかなり遅れたという。しかし、翌年1月には完成した部分もあり、 またその後もたえず修理や延長の工事が続けられ、最終の記録は、実に1332年(元弘2) 幕府が滅亡する前年まで及んでいるという。 この工事負担を要害石築地役(ようがいいしついじやく)という。 発掘調査によると、石築地の高さは2米余、底部の厚さは3米余、海側を切り立たせ、 陸側にはなだらかな傾斜をつけ、外面には大きな石を積み、内部には小石をつめているという。
 
 石築地の構築には、国ごとに区域が定められたらしいが、 労役や費用の負担は、国内の御家人、非御家人を問わず、 すべての領主におのおのの田地に比例して割り当てられた。
 残っている大隈国(今の鹿児島県の東部)の石築地役賦課の文書によると、田一反について一寸、 一町について一尺という割合になっている。 たとえば百町の田地を持つ領主ならば百尺、つまり39米余の長さを負担する。 本工事はめいめいが領内の農民らを引き連れて現地へおもむき、 石材を運ばせ、石を積ませたが、後には費用だけ納めて、工事は請負せたようであると。 石材は博多湾近辺から採取され、小船に積んで現場に運んだという。
 川口など石築地のできないところでは、乱杭を打ち、またところどころに船をそなえ、楯、 征矢(そや)、旗なども用意された。これらも全て石築地役の一部であったという。
 この石塁については、1丈3尺と書いているものもあるが、となれば13尺約4米となるが、 一部そういうところもあったかもしれない。 その長さ25里14町59間半、約100kmという。 万里の長城(中国河北省海関〜甘粛省嘉峪関、2,400km)にははるかにおよばないが、 100kmといえば長い。 どこからどこまでと博多の海岸を考えてみともピンと来ない。で考えてみた。 金のベゴッコではないが、ベコが尾去沢の銅を背中につけて、 泊り泊り盛岡までいったのが25里くらいあったんではないか、と。 どこからどこまで何里何町というのを足してみたら、23里6町になった。 少し足りないナ、と思って、野辺地の方を足してみたら33町16町となった。 それでフト思った。花輪線は盛岡まで100kmくらいあったんではないかと、 時刻表を見たら花輪から盛岡まで91km、十和田南99km、末広103.5km。 これでよし、海岸線も出たり入ったり曲がりくねっているから、 鹿角から盛岡まで鉄道沿いに石垣を作ればよい、と。 100kmという長さも距離感もこれで納得ということにした (私は藩営時代ベゴッコが銅を背中にして歩いた道を歩いてみたいと思う。 今は道も変わり歩けないところもあるだろうが、泊った村から村を繋いで、もちろん車が頼りだが)。

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