GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

蒙古襲来B
 それはさておき、第一回目が終わった翌年、また蒙古の使者がやってきた。 1275年(建治元)4月15日、杜世忠(とせちゅう。礼部侍郎)と何文著(なんぶんちょ。兵部郎中) 外数人が長門の室津にくる。8月大宰府は彼等を関東へ護送した。 この頃竹崎季長も鎌倉に向かっていたから、どのあたりを歩いていたろうか。 9月4日執権時宗は杜世忠等元使をことごとく竜ノ口(現在の神奈川県藤沢市片瀬)で斬ったという (日蓮もここで斬られそうになったから、こゝは首切場だったろう。鎌倉幕府の刑場)。 文永6年(1269)3月、高麗の使者と対馬に来た蒙古の黒的(兵部侍郎=国防次官)、 殷弘(礼部侍郎=文部次官)ということから推して、杜世忠は文部次官、 何文著は国防次官の次くらいか、私の勝手な憶測。 幕府としては今後我国には手を出させぬという断固たる決意を示したつもりであったとかいうが、 相手国に返事もしないで使者を斬るというのは、まさに国交断絶、宣戦布告だ。 フビライは怒ったろう。それにしても使者としてきた彼等は哀れだ。 使いにきたばかりに首を斬られてしまった。彼等にも家もあれば妻や子もあったろう。 彼等は辞世の詩を残したという。
 
 出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機。
 門を出でて妻子に寒衣を贈り、問うわが西行幾日にして帰る、 来る時儻(かりそめ)にも黄金印を佩し、蘇秦(そしん)を持て機に下らざること莫(なかれ)。
 
 読んでも私にはまるっきり意味がわからないが、妻子が栄達を夢みて、 時宜を失することがないよう無事に帰っていったのに、ということらしい。
 何文著、漢人、年38、禅の心得があり、偈(げ)をつくった、と。
 
 四大原無主 五蘊悉皆空 兩國生靈苦 今日斬秋風。
 四大原に主なく、五蘊(ごうん)悉く皆空(くう)なり、 両国生霊の苦、今日秋風を斬る。
 
 この偈は古人のものを改作したものという。 意味は、万物もこの身体もすべてもと空である、 いま双方の国の生霊の苦悶から自分の首が斬られようとしているが、 秋風と異なるところはない、という悟りである、と。
 幕府は高麗人を含めて元使5人の首をさらし首にしたという (元使5人塚というのが、藤沢市常立寺にあるという)。
 
 幕府は1275(建治元)年12月初に九州の諸国及び安芸国(今の広島県)の御家人 (鎌倉時代には、鎌倉将軍と主従関係を結ぶ武士)に「異国征伐」の準備を命じたという (こんな話し、小学校では習わなかった)。
 明年3月頃を目安に九州諸国の兵員・船員を主体にして、 すすんでこちらから遠征軍を編成しようという計画であって、 博多を本拠とし、大宰府の少弐経資を総司令官とするものであった。 「異国」とはどこかはっきり書いていないが、 諸般の事情からすれば高麗をさしあたっての攻撃目標としたらしい、という。
 そのため明年3月20日までに御家人は動員可能な兵員の名と年齢、武具、船舶、櫓数、 水手(かこ)、梶取り及び所領を注進(報告)し、 用意をととのえて、4月中旬までに博多へ廻漕する準備をせよ、ということであったと。
 注進状は定められたとおりには書き上げているが、 幕府が期待したように勇躍して征伐に参加しようというのではなく、 いろいろ事情をならべて参加が困難だと渋っている様子が見えるという。 そんな事情もあってか、この異国征伐の計画は、実際には軌道に乗らなかったらしいと。
 
 この異国征伐の計画を、 国をおもう壮挙であるなどと感激して書きたてた皇国史観の学者もあったという。 この流れが歴史の底を伏流水として流れ、およそ300年後(1592、文禄1)秀吉の朝鮮征伐として噴出し、 更にそのまた300年程後(1873、明治6)西郷隆盛の征韓論となり、明治43年(1910)韓国併合、 そして昭和14年(1939)11月10日挑戦民事令を改正、 お前達も帝国臣民だ、来年2月から6ヶ月の間に日本式の名に変えて、役所に届け出ろとなる。 いわゆる「創氏改名」である。それはどんなにつらく悲しいことか。 民族の誇りも歴史も人間性も否定されることになる。 私達が逆の立場になって考えてみれば、よくわかると思う。 私はまだその頃はこの世にいたが、私のまわりには韓国の人達がいなかったので、 そんなことは知らないでいたが、兵隊に行ってからそうしたことがあったことを知った。 だからわざと「犬糞食衛」とか「犬馬牛豚」などの名をつけて抵抗の意志を表明した人もいたが、 創氏しない人や家族は職場、学校、役所、交通機関などあらゆる場で虐待や差別がくり広げられ、 期限までに約80%、322万戸が創氏したという。

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