鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
蒙古襲来Aこの蒙古の国書の問題になった部分は、最後の方にある「兵を用うるは孰 (いずく)んぞ好む所ならんや」という所であったと思うが、こんな見方もあると、 「文面が傲岸不遜(ごうがんふそん)で日本を強迫する内容であったから、 日本側の反応はしかたがなかった、とする考えが昔からあった。 しかし、それは誤解である。むしろ歴代の中国王朝の外交文書からすると、 低姿勢であることに驚く。 フビライ政権側にはじめから開戦の意志があったとは思えない。 幾度かの国書を黙殺したうえ、使節団を殺害した日本側は、ルール違反といわざるを得ず、 戦争を求める意志表示をしたと解されても致し方がない面がある」と。 こうして文永11年(1274)10月20日蒙古軍が博多湾に現れる (蒙古軍20,000人、高麗軍10,000人、舟900艘)。日本軍はどう戦ったが。 勇猛を誇る鎌倉武士たちも苦戦の連続であったという。 鎌倉の武士たちは源平合戦のときのように一騎打ち、 「我こそは何んの何がし……」と名乗りを上げる、ところが蒙古軍は集団戦法だ、 太鼓をたゝき銅鑼を打って鬨をつくるので、馬が驚きおののいて進退もままならない、 そこに大勢が取り囲んで捕ったり殺したりしてしまう。 また太鼓の合図で一斉に行動する密集戦を得意とし、数百人が弓矢を雨あられのように射掛けてくる。 しかもその矢に毒がぬってある。さらに鉄の玉に火薬を詰め、 それを投石器または素手で投げる鉄砲という新兵器にも苦戦した。 爆発すると大音響を発し、火炎がほとばしる。 さすがの鎌倉武士も肝をつぶし、目がくらみ、耳がふさがり、およそ戦いにならなかったという。 幸い夜になって舟に引き上げた元軍に台風がおそいかかり、元軍は撤退する。 このとき元軍の死者は13,000人をこえたという。 このときの嵐は太陰暦でいえば、11月26日にあたり、台風ではなく、 初冬の玄界灘に吹き荒れる季節風であったといわれている。 さてこゝで皆様ご存知の蒙古襲来絵詞で知られる竹崎五郎季長の登場となる。 彼は主従5人(姉婿三井三郎資長、旗指し三郎二郎資安、郎従藤原源太資光、中間1人) で一番駆けの功名を目指して元軍に突っ込んだというが、 彼はその頃所領をめぐって訴訟中であったので、それより陣容を組めなかったという。 元軍の攻撃はすさまじく、旗指しは馬を射られて落馬し、季長の馬も痛手を負い、 兜にも矢は命中する、あわやというとき肥前(一部は今の佐賀県、一部は長崎県) の御家人白石六郎通泰が100余騎でかけつけ、かろうじて窮地を脱した。 五郎の命を六郎が助けたといえばシャレにもならないが、 彼の名は単功帳に書かれたという。 私は季長は鎌倉の恩賞目あてに、我れかく戦えり、と勇戦の様を書かせたと思っていたが、 それはまた後のことらしい。 彼のこの行動は、血気にはやる猪武者と見る人もあるだろうが、 彼自身はこの先がけを大した武勲だと考えていたらしい。 ところが、戦後の論功のときに報告者の少弐経資がこのことを幕府に報告しなかったので、 彼はひどく不満で、鎌倉に直訴する決心をしたという。 ところが一門の者はみな反対。彼は馬や鞍を売って旅費をつくり、誰れも見送る者もないなか、 仲間二人を連れて翌年(1285年4月25日から健治元年)6月3日出発、 鎌倉について幕府の奉行所に出向いたが、 みすぼらしい若輩の彼にまともに応対してくれる人はいなかった。 どういういきさつがあったか知らないが、10月3日幕府の重臣恩沢(おんたく)奉行の秋田城介 (安達)泰盛に会うことが出来た。 季長は事の次第をきちんと申し上げる。 11月1日泰盛の館に呼ばれて勲功の賞に領地を賜るという下文(だしぶみ)を拝領する。 実はその日大宰府へあてて九州の御家人120人の行賞が通知されたが、 恩沢奉行の手からじきじき下文を賜わる名誉に浴したのは季長一人であったという。 さらに泰盛は馬と鞍を与えたので、感激も一しお、勇躍国へ帰ったのは翌年 (1276、建治2年)正月はじめであったという。 彼の厚遇に感激した季長は自身の武勲の跡と安達泰盛、同宗盛、少弐景資(博多防衛軍の大将) のことなど絵師に命じて絵巻物に描かせ、 甲佐(こうさ)大明神(自分の領地となった肥後国海東郷の神社)に奉納したという。 その後時代と共に所有者が変わり、明治23年(1890)宮内省に納められ、 現在は宮内庁三の丸尚蔵館にあり、国宝に指定されているというが、 いつ指定されたか私はわからない。 この絵詞(絵巻物に詳しく説明を加えたようなもの)二巻の成立は、 永仁年間(1293〜94)、また正安年間(1299〜1301、道真公が松館に祀られた頃、 一説には1022年とも)と推測されるという。 ただこの絵巻、竹崎季長の武勇伝は別として、 当時の蒙古の風俗や博多の様子などを伝える貴重な資料であるという。 |