GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

蒙古襲来@
 さて、蒙古の襲来だが(話しは前後ゴチャ混ぜになると思うが)、 第一回(文永11年(1274)10月20日)の攻撃をしてくる前、どんないきさつがあったのか少し整理してみると(受売り)
 
 1) 文永5年(1268)正月(第一回目襲来の6年前)、 高麗の使者が蒙古皇帝の国書を太宰府にもたらした。 この国書は太宰府から関東→京都に伝えられる。 後嵯峨上皇は返書を出さぬと決定する。
 
 2) 文永6年(1269)3月(第一回目の5年前)、 蒙古及び高麗の使者が対馬島に来って島民2人ばかりを拉致し去った。 半年後島民を伴い再び対馬島を訪れた高麗使は蒙古の国書を携えていた。 たゞしこの国書は皇帝の信書ではなく、中書省の牒状である。 朝廷は返書を今回は出すことにして文章博士(もんじょうはかせ) 菅原長成の手による「草」を用意したが、鎌倉幕府の反対にあって差し止めとなった。
 
 3) 文永8年(1271)8月(第一回目の3年前)、 高麗から「牒」が届いたが、内容は蒙古の命を伝えるものではなく、粮米及び援兵を乞うており、 高麗南部の多島海に拠って蒙古に抵抗する人々からのメッセージであった。 鎌倉幕府は筑・肥の国々に多くの荘園を持ち、たとえば肥前鏡社(かがみしゃ)の武士団を通じ高麗国、 特にその南部地域における状況を知りうる立場にあったにもかかわらず、 具体的な対応策がとられた形跡は一切認められない。
 
 4) 翌月(文永8年9月)、蒙古国の正式な使者(日本国信使(しんし)) 趙良弼が随員数十人とともに筑前今津に来って自ら上洛を企てた。 「牒」を直接朝廷もしくは幕府につたえようとしたのである。 太宰府の責任者少弐資能(よしすけ)との問答の後、 趙はようやく写しを作って資能に与え、大宰府→関東→京都のルートを経て、 この案件が院御所の評議にかけられたのは、10月24日。 牒の趣旨は「今まで何度も申し送っても返事がない。来る11月を期限として返事がなければ、 兵船の備えにとりかゝる」というものであった。鎌倉幕府の執政者たちたは、 この時点で襲来の必然性を悟ったであろう。 鎮西諸国に所領を持つ武士団の御家人に対し、 現地に下って守護所の指揮下に入るべき旨指示が出されたのは9月13日のことである。
 
 こうして蒙古の正式の使者趙良弼が来てから3年後の文永11年(1274)10月20日 蒙古軍は博多湾にあらわれる。 この3年も間があったのは、蒙古にもそれなりの事情があったかもしれないが、 蒙古ではこの良弼が来た1271年に国号を「元」に変えている。 だから私達は小学校の時に、この蒙古の襲来を「元寇」といって習った。
 
 考えてみると、我が道真公が894年9月、唐の国も大分さわがしくなっているようだし、派遣するにしてもお土産やらなにやら莫大な費用がかゝる(唐の滅亡は907年、 以後五代十国といわれる争乱の時代に入って行く)。 日本も疫病、凶作、飢饉などが続いており、無理だろうということで遣唐使の派遣を中止してから、 およそ400年近くなる。正式な対外交渉なんてやったこともない(民間の交易はあったろうが)。 朝廷も幕府も外国の情勢にくらく、交渉の要領もわからず、挙句の果て、 相手の国書の言葉尻をとらえて、おどしているとか、無礼であるといって返書も出さず、 日本は神の国だ、と国防の備えもしないで、上下あげて敵国降伏、戦勝祈願にあけくれていた (菅原長成の作ったという返書の草案は今も残っているという。それは、国書の体裁はとらず、 蒙古へは日本の太政官から中書省あて、高麗へは大宰府守護所から慶尚晋安東道按擦使 (けいしょうしんあんとうどうあんさつし)あてのもので、蒙古の方には日本は「神国」だから、 威嚇には屈しないという拒絶の意を述べたもので、高麗へのものには、 俘虜を送還してくれた厚意に感謝する言葉が記されているという)。

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