鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
フビライところで、その頃の中国に行ってみる。ジンギス干ばの孫フビライが、おゝむね中国を統一して、 皇帝の位についたのが1260年(日蓮が立正安国論を書いた年)、1271年国号を元と改める (日蓮が竜ノ口で切られようとした年)。例のイタリアの商人旅行家のマルコポーロが、 父や叔父と旅立ったのは、1270年あたりらしい。 1274年フビライに謁見、任官、何年いたか知らないが、1295年に帰国、戦争に巻き込まれて負け、 獄中で書いた(口述)のが「東方見聞録」1298年とか。見たことはないが、 それには日本は黄金の国だと書いてあるとか。 ご存知のように、タマゴガチャンコで有名なコロンブスがそれから200年くらい後に、 スペインの女王さまからお金を出してもらって、その日本に行こうと出発したのが1492年とか、 日本だと思って上陸した島がアメリカ大陸の発見になる。 残念でした、どころか大もうけだ。もしコロンブスがアメリカにぶっつからないで、 そのまゝ日本にきたらどうなっていたろう。 なにせ1500年代だ、応仁の乱(1467〜77)から戦国時代に入って行く頃だ。 が心配はいらない。コロンブス一向は飲水はなくなる、食料はなくなる、病人は出る、 太平洋のどこかに沈んでしまったろうから。 コロンブスは抱いて寝ていたかどうかはしらないが、この見聞録を身辺から離さなかったという。 それにつけてもマルコポーロは、フビライが日本にせめて行くのを見ていたろうか。 フビライに会ったのが1274年の何月かしらないが、この年10月、第一回の日本攻撃が行われた。 彼はフビライに仕えて地方監督とか、施設として各地に派遣されたりして、17年間いたという。 第二回目は、来てから7年後の1281年だから、フビライが青筋立てゝ怒っていたのは、 政府の高官として側にいたから当然見ていると思う。 サー、国へ帰ろうとなったのは、1290年頃になると思うから、帰りついたのは1295年というから、 帰りも5年くらいかかったことになる。 元々商人だから、商売をしながら旅を続けていたのかもしれない。 さて、見聞録に蒙古が日本に攻めて行ったことは書いているかどうかはしらないが、 商人の彼にとっては、戦争なんてどうでもいゝ、関心もない、問題は黄金だ。 日本が勝とうが負けようがそんなことはどうでもいゝ、黄金の国日本が大事だ。 彼は日本に向かって出直すつもりだったかもしれない。 おゝよそ200年後、コロンブスが代わって日本を目指すことになるのだが。 その東方見聞録の日本に関する記事、やっと見つけた。 訳者によって言葉遣いが少し違うかもしれないが、少し長くなるが、この際と思って書くことにする。 「ジパングは、マンヂ(中国の中南部をさす)から東方1,500マイルはなれた大洋のなかの島で、 はなはだ大きな島である。 住民は色が白く、開化していた顔立ちもすぐれている。 かれらは偶像崇拝者で、かつだれにも従属していない。 かれらがもつ黄金は無限であるといえるが、それは自分らの島で金を産し、 国王がその輸出を許可しないからである。のみならず、大陸からたいへん遠いため、 この国をおとずれる商人もほとんどなく、かくてかれらの金の保有量ははかり知れないほどである。 わたくしは諸君に、その島主の宮殿についての驚くべき事実をお話ししたいとおもう。 島主は壮大な宮殿をもっているが、その屋根はすべて純金であって、 あたかもわれわれの教会の屋根が鉛で葺かれていると同様で、 その価値はいくらともはかりしれないものである。 そのうえ宮殿の舗装や各宮の床はすべて金で、板石のように敷かれており、 それも指三本の厚さはじゅうぶんにある。 窓もまた金でできており、したがってこの宮殿の富はとても信じられぬほどのものである。 かれらはまた、豊富な真珠をもっている。その色はバラ色で、 しかも立派で大きくまるく、白色真珠と同じくらい高価なものである。 この島では死者を埋葬もしくは火葬のばあいには、 こういう真珠一粒を死者の口の中に含ませる風習がある。 そのほかまた他の宝石類もすこぶる豊富である」 という次第ですが、この記事を書いた人は、続いてこんなことをいっている。 「この記事につづいてマルコは、いまの大ハーンのフビライが、 ジパングのこのすばらしい富を入手する計画を立てて軍勢を送ったが、 嵐にあって失敗したことを述べている。ただしこの記述はきわめて不完全で、 とても史料としてはとるにあたらぬものである」 といって、こんなことも書いている。 「東方見聞録」はおしなべて、驚くほど客観的な叙述態度で書かれているという定評がある。 たしかにマルコポール自身が実地に見たことについては正確な観察が記録されいてるとおもわれるが、 それだけにかえって伝え聞いただけの話となると、荒唐無稽なことも聞いたまま書きとどめたらしい。 日本についての記事は、けっきょくそういう伝聞の寄せ集めのたぐいに属するものである」と (マルコがフビライに会ったのは1274年とも75年とも書いたのがあるので、 どっちなのか今の私にはわからない)。 が、しかしこの見聞録を見たらコロンブスでなくても、日本へ行ってみたくなるよナー……。 |