GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

親鸞・日蓮
 さて、さて、寄り道が長くなってしまったが、祇園精舎の鐘が鳴り、沙羅双樹の花も散ってしまうと、 源平の世も終り、いよいよ神風の吹いた時代に入ってゆく。
 この1,200年代、エライ坊さんもいっぱいいたと思うが、私はよく知らないが、 なんでも栄西(1141〜1215)という坊さんが、中国からお茶の種を持ってきて、日本に広めたという。 それで「喫茶養生記」とかいうのを書いて、実朝にお茶を進めたという。 どんなことを書いてあるかは知らないが、多分お茶を飲めば病気をしない、 健康で長生きする、と書いてあったかもしれない。 今、色々な健康飲料・食品などが不老不死の妙薬みたいに宣伝合戦に夢中だが、 この「きっさようじょうき」はそのコマーシャルの走り、第1号かもしれない。
 そしてもう一人、坊主だって人間だ、といったかどうかは知らないが、 親鸞(1173〜1263)、それまでお尚さんは独身と決められていたかは知らないが、 正式にというか、堂々というか、カーチャンをもらい結婚第1号となった。 当時の風潮というか、禁断に抗して結婚するということは並々ならぬ勇気と信念があったことと思う (その頃妻帯する者がふえてきていたとはいえ、本来は僧侶の妻帯は禁断であったという)。 そのおかげでお尚さんが奥さんをもらうのはあたりまえのこととなったが。
 
 親鸞が奥さんをもらったことで思い出したが、今はあまり聞くこともなくなったが、 お寺の奥さんのことを大黒さんという。何んで大黒さんなのかも、 大黒さんといえば七福神の一人なことも、皆さんご存知のとおりですが、 知ったかぶりをするわけではないが、こゝらで少し整理すると(また受売り)、 大黒天(右に打出の小槌を持ち、左に袋を背負い、米俵の上に座っている)は、 飲食を豊かにする台所の神でもあるので、 寺院の庫裡をまもっている僧侶の妻を俗に大黒と呼ぶようになった、と。 大黒天は梵語でマハーカーラ、漢訳で音写は摩訶迦羅(まかから)、 インドの武神が仏教に採り入れられて三宝守護の神とされる。 また飲食を司ることから台所にまつり、僧侶の妻を大黒という。という次第。 昔、我が家でも台所に大黒様を飾って(祀って)いたが、カーチャンを大黒さまとはいわなかった。 これはやっぱりお寺の奥さんでなりけゃダメなのかもしれない。 ところで三宝を守護するの三宝だが、よくお寺に行くと、お尚さんが、 ブッポウソウのサンボウを何んとか拝むが、三宝とは梵語のトリートラナの漢訳、 仏教徒が尊敬し供養すべき仏宝、法宝、僧宝の三ツをいう、と。 仏は開悟して他を導く人、法は仏が説いた教法、僧は仏法を守る人達の集団。
 
 親鸞の話しが大黒さんの話しになってしまったが、もう一人忘れられないのが日蓮(1222〜1282) だが。私達が子供の頃(昭和のはじめ頃)正月になると大人達がカントウ豆 (廣東豆から南京豆になり落花生になって、殻をむかれてピーナッツになってしまった) の殻やミカンの皮を散らかしながら百人一首をやっていた。 この百人一首を藤原定家(1167〜1241)がつくった(とされる)のが1235年、 日蓮が仏門に入り(12歳)、法華経、いわゆる日蓮宗を開宗したのが1253年(建長5年)といわれ、 32歳のとき、立正安国論を書いて、北条時頼(1227〜1263、5代執権)に上申したのが1260年7月、 時に日蓮39歳。 これは事実上の政治建白と言うべきもので、幕府の悪政と既成仏教の無力をきびしく糾弾、 邪宗を排除しなければ国難がくると折伏を続ける日蓮が幕府ににらまれ、 捕らえられたのが1271年9月12日、日蓮50歳。 馬に乗せられ警固もものものしく、七里が浜を磯づたい、ポックリ、ポックリと刑場に向かう。 竜ノ口についたとき奇跡がおこる。 突然月のように光るものが空に輝きわたり、首を切ろうとした武士の目もくらみ、 太刀は折れ、兵士たちは逃げまどい。或いは馬上にひれ伏した。 ということで、幕府は死罪を断念して、佐渡に流すことにしたという (私にいわせれば、正義の味方、我が道真公がカミナリを落として日蓮を助けたんだとなるが)。 日蓮が赦免されて佐渡から帰ったのは2年後の文永11年2月という。 この年の秋、蒙古が攻めてくる。いわゆる文永の役(1274年10月20日)である。
 
 私は日蓮が書いたという「立正安国論」という本の名前は聞き知っているが、見たこともなく、 その中味は本当はよく知らないが、その冒頭にこんなことが書いてあるという。 「天変地夭、飢饉疫癘、遍く天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬ちまたに斃れ、骸骨路にみてり。 死を招く輩すでに大半を超え、これ悲しまざる輩あえて一人もなし」 これは、正嘉の飢饉のようで、民衆とともに味わった日蓮の体験が、この書の原点だった、と。
 
 ここにいう正嘉の飢饉とは、1258年(正嘉2)8月23日鎌倉に大地震があり(5月と8月にもあった、と) 7月から日照りが続き、相次ぐ地震や集中豪雨などの異状気象は翌年まで続いたという。 いわゆる正嘉の危機といわれると。日蓮が立正安国論を書いたのが、 この1258年を踏まえた1260年ということになる(鎌倉の大仏は1152年着工(完成不詳)というから、 この頃できていたのか。露座になったのは1495年の地震による大津波で、 大仏殿流出から)。
 それにしても今、道真公も日蓮さんも、とうしているだろう。 私は是非お二人に頼んで、道真公には国会議事堂にカミナリを落とし、 日蓮さんには国会でオメエら何しているんだ、ボケルのもいゝかげんにせい、 と大獅子吼してもらいたい。 とお願いしてくることもかなわないが、あのお二人、あの世でニガ虫をかみつぶしたような顔をして、 今の世の中をみているだろう。国難が来るゾ!!と。

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