GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

葬式のこと
 私達が子供の頃、葬式があると、どこそこの誰と花っこづくりの上手な人がいて、 その人が頼まれていって、皆で教えてもらいながら手伝って花っこづくりをしたものだ。 今は葬儀やさんがみんなやってくれるが……。
 牡丹の花とか菊・蓮華などをつくった(つくる花の種類とか数は大体決まっていたように思う)。 破れたカラ傘の骨を削って棺おけ?の上にさして飾る。桜の花もつくった。 中でも「シカ」をつくるのが簡単なようで難しかったように思う。このシカは亡くなると、 一番先につくったように思う。 木の棒(割箸のような)に横刻みに鋏を入れた長い紙を螺旋状に巻きつけてゆく、 といえば簡単なようだが、紙をどう折って、どう鋏を入れるか(同じ巾、同じ深さ)、 螺旋状にまくといってもズレが出てくる。 もう一つは、それを刺して立てる台をつくることだった。 一尺?くらいに切ったワラを大人の親指と人差指でつくった輪くらいに三ツ作って、 それを二ツ折りにしてナワをなうようにねじって(3分の2くらい)足を三本つくり(末広がりに)、 それを合せて一つにして束ねてつくる。 二ツだったか四ツだったか忘れたが、白の外に金銀のもつくったような気もする。 私達子供の役割りは牡丹の花の台木にする2尺くらいの適当な枝ぶりの木の枝をとってくることだった (今、木の名前はどうしても思いだせない)。 ジサ木といったろうか、赤い粟粒のような実が房状?になる、いやなくさい臭のする木だ、 この木の芯はスカスカというか、今の発泡スチロールのようになっているのでつくった花の茎というか、 串の部分をさすのに都合がよかった。 棺桶は鉱山に頼みに行って作ってもらった(工作課の大工さん)。 こうしたことは、昭和30年代、40年代に入る頃まで行われていたと思う。 私の記憶もいゝかげんなのでおぼえている人は教えて下さい。
 
 それで「シカ」の話しにもどるが、シカは紙花、死花、紙華花などとも書くようだが、 私は死んだとき一番先に作るから死花(=死に花)だと思っていた。 それで念のためにと母親が死んだとき(昭和14年)の「役割行列之覚」という帳面 (B4の半紙二ツ折り)を見てみたら、「死花」と書いていた。 尾去沢では、とはいわないが、我が下タ沢では、死花といっていたと思う。 昔はどこでもそうだったと思うが、このよう帳面を作って、誰が何を持つとかを決め、 それを読み上げて、それぞれを持って順々に行列をつくって墓地に行った (土葬だった)。どういう関係の人が何を持つ、とおゝよその決まりという程ではないにしても、 しきたりというか目安のようなものがあったと思う。 それで位牌は私が持って仏飯は弟が持っていた(当時は写真はなかった)。 今は葬式やさんがみんなやってくれるので、 湯かんはもちろんあの世に着てゆく白(なんといったか今思い出せない)もみんなで縫った。 そうしたことを万端指示してくれる物知り(座配人?=ザヘャ)もいた。 今も昔ながらの野辺の送りをやっておられるところもあると思うので、 今のうちに書き残しておいていたゞきたいものだと思う、ビデオもあるし。
 
 私の母親のときは、初夏だったので、まだいゝが父と弟は1月だった。 私はシベリアにいて何んにも知らなかったが、墓地は山の中腹斜面にあったので、 道をつけるにも、穴を掘るにも本当に難儀したろうと思う。 親類縁者、知人友人みんなが集って、亡くなった人をあの世に送った。 そこには亡き人を悼む、悲しみをわかち合う、今は忘れたように聞くこともなくなった 「人情」という心のぬくもりがあった。

[次へ進む]  [バック]