鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
愛国百人一首この戦時中、小倉百人一首の向こうをはった「愛国百人一首」というのがあったような気がしたが、 もう70年の前の話しだ。思い出せない。がやっといつ出来たかは見つけた。 それは昭和17年11月20日、日本文学報国会が情報局の後援で選定発表したものだった。 11月20日といえば、(尾去沢中沢の)ダム決潰の7回忌だ。私はそれどころでない。 この世の命もあと2ヶ月余(昭和18年2月1日新潟県村松の部隊へ入隊)、 軍人勅諭をおぼえてゆかなければならないといわれて、 毎日目を白黒にして天井をにらんで文句を呑みこんでいた。 ともあれこの百人一首、一番先に選ばれたのはおそらく 「海行かば……」の歌であったろう。実朝は何番目かは知らないが、きっと入っていたろう。 幕末の志士の歌なども入っていたと思う。とにかくこの軍人勅諭は長かった。 曹洞宗の修証儀のはじめから終わりまでより長かった気がする。 それで一箇中隊に初年兵が50人くらいいたとして、全部暗誦できるのがせいぜい一人か二人。 だから軍人勅諭を言うてみろ、といわれて、 “我が国の軍隊は“でつっかえても気合を入れられるくらいで大したことはない。 それが五箇条を言ってみろといわれてつかえたら、それでも貴様は帝国軍人か、 とたちまちビンタが飛んできた。 五箇条というのは、勅諭の中程に軍人の心得として、 一ツ軍人は忠節を盡くすを本文とすべし。一ツ何々と五ツあるわけだが、 信義を重んずべしとか、礼儀を正しくすべしとか色々あった。 二年兵になると、自分はろくすっぽいえないくせに初年兵に気合を入れる。 上官の命はたゞちに朕が命と心得えよだ。 星一つ上でも上官だ。 昭和20年代、30年代はよく軍隊帰りの人達が「我が国の軍隊はそんなもんでネェ」とか、 何にかにつけて「我が国の軍隊は」といゝ出したものだ(冗談半分だが)、 今は聞くこともなくなったが。 ご存知のようにこの軍人勅諭は、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある、 昔大伴物部のつわものども」云々ではじまり延々と続く。 つまりそれは「我が国の軍隊は」でつかえて気合を入れられた(入れた)名残だったかもしれない。 この百人一首の前年(昭和16年1月8日)といっても2年近く前になるが、陸軍大臣東条英機の名において、 軍人の心得として「戦陣訓」というのが出された。私達もおぼえろといわれて、 小さな(10p×8pくらいか)うすっぺらな本を渡されたか買わされたか忘れたが、 それは「夫れ戦陣は不自由なるを常なると思い」ではじまる。 何項目があったかもみんな忘れたが、その何項目かに「名を惜しむ」として、 皆さんご存知の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず死して罪過の汚名を残すこと勿れ」、 というのがあった。この一文のためにどれほど多くの悲劇が生まれたか。 今から10年前か20年前か忘れたが、 この戦陣訓(東条英機が金切り声で読み上げたわけだが)をつくった人達 (一流とされる作家とか詩人とか学者など)がいたと思うが、 その人達が戦後どう生きたかを書いた本が出たことがあった気がするが、 そのうちと思っているうちにわからなくなってしまった。 なにせ今まで天皇陛下萬才と教えていたのが、 次の日は180度転換、自由主義萬才になってしまった時代だ。 あんまり急いだので、自由主義とは自分勝手主義だと思い込んだ人もいたかもしれないし、 本当になやみ苦しんだ人もいたろうと思う。 |