GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

頼朝
 考えてみたら、平氏が壇ノ浦で源氏に滅ぼされたのは、 清盛が太政大臣になり「平家にあらざれば人にあらず」 などといゝ気になって思い上がっていた頃より18年目、 その清盛が助平心でたすけた義経、 清盛の義理の母という池禅尼が仏心をおこして可愛そうだたすけた頼朝、 この兄弟によって滅ぼされてしまう。 その源氏が鎌倉に幕府を開いた(諸説があるようだ)、頼朝が征夷大将軍になった1192年とすると、 その翌年(1193年5月28日)、富士の巻狩りの後、 弟の範頼が謀反の疑いをかけられて殺されたのが8月、 その頼朝が相模川の橋供養(家臣の稲毛重成が亡妻の追福のため橋を新造した) に出かけた帰り落馬して(1198.12.27)そのまゝ寝こんで急死したのが1199年1月13日。 いやしくも武士たるものが戦場ならいざしらず、 平らな道をポックリ、ポックリ歩いていて馬から落ちるなどとは考えられない。 私でなくても当たったんだと思う。脳溢血説もあるが、 頼朝に殺された人々の怨霊のたゝり説もあるという。 こうして長男頼家(18才)が1月26日跡を継ぐ。 この頼家、蹴鞠(けまり)に夢中になって(ばかりではないだろうが)、 政務をさっぱり見ないという。とうとう修善寺に幽閉され(1203.9月、22才。翌年7月殺される)、 弟の千幡(実朝)が12才で三代将軍となる。 この実朝は14才から歌を習ったとかでその詠みぶりは万葉風とかいわれ、 金槐和歌集一巻を残している。というが私には万葉風などといわれてもわかるはずもないし、 金槐和歌集なんて見たこともない。 たゞ私達が高等科の頃歴史の時間かに習ったような気もするが、 「武士(もののふ)の矢なみつくろふ籠手(こて)の上に霰たばしる那須の篠原」としいうのがあったが、 それが万葉風なのかは別として、なんといっても、戦時中もてはやされた?のが、
  “山はさけ海はあせなん世なりとも 君に二心わがあらめやも“

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