GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

静御前
 ということで、元気を出して、静(しずか)はどうしたとなるわけだ。
 雪の吉野山で義経と別れた静は、その後吉野山の衆徒(お寺に宿っている僧徒)に捕らえられ (文治元年(1185)11月17日)、翌1186年3月、母の磯禅師(後に磯禅尼(ぜんに)。 仏門に入った女の人。 この母は藤原通憲に白拍子の歌を学び、静に伝えたという)と共に鎌倉に連れて行かれ、 義経の行方を聞かれるが頑として答えない。そのうちに4月になった。 8日に鶴岡八幡宮が頼朝以下諸将居並ぶ中で白拍子を踊らされる (白拍子=平安末期から鎌倉時代にかけて行われた歌舞。またそれを歌い舞う遊女)。 4月8日は何んの日だろうと思って(たとえば春の例祭とか、頼朝の誕生日とか) 鶴岡八幡宮に電話して聞いてみたら、現在は毎月行事やお祭りのようなものやっているが、 例大祭として決まってやっているのは秋の9月15日だ、と。 静が踊った4月8日は何んの日かわからないということだった。 歴史の専門家に聞けばわかるだろうが、このとき伴奏したのが工藤祐経の銅拍子 (金属製の打楽器、真鍮で作り、2ヶで1対とし、 その外側中央に紐を通し指に挟んで合わせ鳴らすもの、という。 大きさはわからない)。 この間青森のねぶたの里に行ったとき、ねぶたを動かしたり、「はねと」の実演をしたとき伴奏に両手にはさんで打ち鳴らしていた楽器?がそんな楽器だったので写真をとらせてもらってきたが (直径10pぐらい)、青森の方では「手ひら鉦、弘前の方では「ジャガラ」というそうです。 銅拍子の話が長くなったが、鼓を打ったのは秩父重忠であったという。 工藤祐経はご存知のように後年(1193.5.28)富士の裾野の巻狩りのとき、 曽我の十郎・五郎兄弟に父の仇を討たれてしまう(ジャガラ=手ぶり鉦ともいうと)。
 
  しずしずやしずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな
  吉野山峯の白雪ふみわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
 
 静は、血をはく思い出、昔のように兄弟仲よくして下さい、と歌い、 そしてその兄に追われる義経に万感の思いを込めて、峯の白雪ふみわけて、 とその真情を舞い納める。静は死を覚悟していたかもしれない。
 頼朝は腹を立てゝ殺してしまえとなったかもしれないが、女房の政子が女の気持は女がわかる。 私だって父に気に入らない結婚をしいられたとき、嵐をついてあなたの許に走ったではないか (この話し、映画だったかもしれない)、政子に頭の上がらない頼朝は、 しぶしぶその場はそれで納まったかもしれない。 後年、富士の巻狩りのとき、長男頼家(12才)が鹿を射止めた。 喜んだ頼朝が、倅でかした、と書いたかどうかは知らないが、早速喜びの手紙を政子に送った。 見るなり政子は「武士の子が鹿を射るのは当たり前じゃ」と一喝したということなどからも、 その気丈な姿が浮かび上がる。
 その後7月29日静は男の子を生んだというが、頼朝の命により殺され、 京都に帰ったというが消息不明、頼朝の手の者によってひそから頃されたか、生没不詳と歴史はいう。 義経も可愛そうだが静も哀れだ。私達は何んにも知りませんと、 静を吉野山の霧の中にかくしてしまった。
 いつの頃からか、この吉野山の木々のかげに、ひっそりと一人たゞずむように咲く白い花があった。 それを見た人達は、その花の中に薄幸の運命に翻弄されて消えていった静の姿を見 「一人静」と名付けて、その悲しい生涯をしのんだ。どんな花な私は知らない (センリョウ科の多年草、山地の林下に自生、茎は20p内外、 頂に楕円形の四ツ葉をやや車輪状につける。 早春、葉間に花軸を出し、白色の細花穂を1〜2本つける。マユハキソウ・ヨシノシズカ)。
 世に判官(ほうがん・はんがん)びいきという言葉もある。 静は吉野山の霧の中にかくしたが、義経も殺したくない。 弁慶が体をはって泰衡軍の矢を防いでいる間に、義経を自殺と見せかけて逃した。 義経は岩手を北上し、青森に出て、北海道に渡り、 更にモンゴルに行ってジンギス干という大英雄になったという。 頼朝はいくら頑張ったって、モンゴルまでは追って行けない。 当時義経は31才、ジンギス干は1155年(1162年とか1167年という説もあるとか)生まれとすると、 34〜5才、年齢的には合う。 その孫が日本に襲いかかってくる(元寇)。 その話しはまた次として(義経=ジンギス干説は、明治になってからできたらしいとか)。

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