鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
奥州藤原氏滅亡義経は、私はそんな悪だくみはありません、と書いたかどうかは知らないが、 詫状を持って腰越(鎌倉の西入口、義経の首実験もこゝでやられたいう)まで行ったが、 追い返されて雪の吉野山で静と別れる。 壇ノ浦で平家を滅ぼしたのが、この年の3月、時に頼朝39才、義経27才、 それからわずか8カ月、平家討伐の最大の功労者であった義経がその兄に追われる。 どこをどう歩いていたかは知らないが、羽黒山に下る山伏に化けて、 弁慶を親分にして奥州平泉を目指す。 安宅の関に現れたのは雪が消えていたろうが、南都東大寺の勧進と称して通り抜けようとするが、 関を守る富樫左衛門にあやしまれ、勧進帳を読んでみろといわれて弁慶、 笈の中から何も書いていない白紙の巻物を取り出して朗々と読み上げ、一寸したへまにかこつけて、 従者に化けていた義経を打ちすえる。 富樫左衛門はそれが義経だとわかる。なにせ出ッ歯のみったくなしの小男だ。 忠義者の弁慶が涙をのんで主人の義経を打ちすえる。 その心情に、そこは武士の情だ、左衛門、わかっていたけれども気付かぬ振りをしてよし通れ、となる。 芝居だか歌舞伎だかの安宅の関(石川県小松市)の名場面はこんなところだったろう。 こうして各地に義経や弁慶の伝説を残しながら平泉の秀衡のもとにたどりついたのが、 静と別れて1年余たった1187年2月10日という。 秀衡は衣川の舘に義経主従を住まわせてかくまう。 このとき秀衡は元気だったか病気だったか知らないが、 この秋10月29日、4代目泰衡に義経を大将にして一族団結して頑張れと遺言して死んでしまう。 ところが4代泰衡は役立たずだ。 28万4,000騎(本当は2〜3万期騎だったかもしれない) という大軍を率いて迫ってくる頼朝軍におびえた泰衡は衣川の舘に義経を襲う。 いくら弁慶が立ちはだかって矢を一身に引き受けて頑張った(立往生)にしても、 衆寡敵せず義経はとうとう殺されて(自殺とも)しまう。 1189年4月30日、時に義経31才とか。義経の首は酒に漬けられて鎌倉に送られる。 頼朝はそんなことぐらいでは一件落着とはしない。 彼の本当のねらいは、鎌倉を背後からおびやかす藤原氏を滅ぼすことにあったろう。 泰衡はとうとう自分の居舘(政庁)平泉の舘(柳の御所)に火をつけて逃げ出す。 8月22日、彼は鹿角を通って(八幡平の桃枝から黒沢か)大葛を越えて肥内郡(比内)にのがれ、 贄柵(にえのさく。大館市)で家来河田の次郎に殺されたという。 義経の首をとってからおよそ4カ月後、1189年9月3日、35才という。 彼は夷狄島(いてきしま。北海道)に逃げようとしたとも、 青森の十三湊に逃げようとしたという説もあるようだが私にはわからない。 これで奥州藤原氏も一巻の終りとなるわけだが、 泰衡の首は頼朝のところに届けられたというが、後返されて金色堂に納められたという。 が、耳、鼻が削がれ額には釘を打った跡があり、 梟首(きょうしゅ。罪人の首を獄門にかける。さらし首)されたことがわかるという。 この頼朝軍の先陣を務めたのが、 かつて鵯越の坂落しのとき馬をかついで下りたという畠山重忠であったと。 |