GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

源義経
 というわけで、いよいよ義経の登場となるわけだが、 彼は鞍馬寺に預けられて鞍馬山に住む天狗(山伏、修験者かもしれない)から 飛斬りの術や武芸など習って五条の橋で弁慶(幼名鬼若丸、熊野の別当の子という。 武蔵坊と称し、比叡山西塔にいたという)をやっつけて家来にし、 後に金商人(金売り)吉次に連れ出されて、平泉の藤原氏を頼って行く。 一方兄の頼朝(母親ちがいのようだ)は伊豆の蛭ヶ小島に流されたのが14才、 雌伏20年相模の石橋山に兵を挙げ、平家討伐を開始する。 弁慶以下の家来を連れてはるばる奥州から掛付けた義経も一方の大将となり、 京都から平家を追い落とし、一の谷、屋島、壇ノ浦と平家を追い詰めて滅ぼしてしまう。 一の谷の戦いのときであったか、鵯越(ひよどりごえ)の坂落しとかいうのがあったな。 猟師に聞いたら鹿なら通れるが、馬は無理だと。 要するに爪が割れているかどうかが問題らしい。 鹿が通れて馬が通れないことがあるか、俺に続けといったかどうかは知らないが (本当は鷲尾三郎というのが先導したらしい)。 後ろは断崖絶壁、アホッとして海ばかり見ていた平家軍に義経が降ってきた。 このとき一方の大将に畠山重忠という人がいた。 彼は愛馬がかわいそうだと前脚をかついで下りたという。 当時の馬は今にくらべれば少し小柄だったかもしれない。 それにしても馬は馬だ。彼も必死になって尻もちをつきながらすべり下りたろう。
 屋島の戦いでは、那須与一が扇の的を射落して男を上げたり、 義経は海に落した弓を敵に拾われたら、 源氏の大将こんな弱い弓かと笑われると必死になって拾い上げたり、 壇ノ浦では天狗に習った得意の飛びきりの術で八艘飛びをやったりして平家を滅ぼす。
 
 こうして軍記物語の最高傑作といわれる平家物語は、 “祇園精舎の鐘の声諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらわす、 おごれる人も久しがず、只春の夜の夢の如し、たけき者も遂には滅びぬ、 偏に風の前の塵に同じ“ ……残念でした、晴沢先生こゝまで読んだら時間切れ……ベルが鳴った。
 
 京都に帰った義経は、ニックキ平家をやっつけてくれたというので大人気。 私はこのとき官位をもらったのかと思っていたが、それはこの前の年のことだったらしい。 それにしてもどんな位をもらったかわからなかったが、1184年8月、 検非違使(けびいし)、左衛門尉(さえもんのじょう)、9月、従五位下、 太夫判官(たゆうのほうがん)、10月には院内昇殿を許され、派出の拝賀の式を挙行したという。 頼朝はそんなことも気にくわなかったろう、 平家追討の総大将を義経から範頼にかえたという。 が範頼ではらちがあかないので、再び義経にかえたという。 そんな義経に自分の許可を得ないで官位をもらうのはけしからんとか、 叔父の行家と組んで謀叛を企てているとか、なんとかかんとかなんくせをつける。 そのかげで糸を引いていたのが後白河上皇とか、義経にどんどん官位をやったのも、 兄弟の不和を利用した離間策だとか、なにせ我まゝいっぱいの怪物だ。
この世の中で私の思いどおりにならないのは双六のサイと
賀茂川の水と延暦寺の山法師だと(天下の三不如意)といったとか
(当時延暦寺の僧兵たちが日枝神社の神輿をかついで朝廷に強訴を繰り
返していたとかいう)、一筋縄では行かない中々の策士だったらしい。
(筆者の勘違いか。「天下の三不如意」は白河法皇)
 それでも「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)口伝集」などという当時の今様(はやり歌) などを集めたものを残している。 この本は500首をこえる歌数に加え、雑芸の各種目にわたって内容を明らかにし、 文学史上のみならず音楽、風俗、その他文化史上・思想史上に絶大な寄与貢献をなした、という。 後白河上皇は、この今様を歌いながら、横目で世の中をこっそり見て、 裏で色々画策していたのかもしれない。 頼朝にいわせると「日本一の大天狗」だそうだ。なら頼朝はなんだ、ということになるが。
 
 さて、と一休みではないが、先にもいったように皆さまご存知のことを得意面(づら)して、 くだくだと書くわけではないが、孫に昔話しをするときの覚え書きということで。
 それで、およそ800年も前のはやり歌のことは、見たことも聞いたこともないのでどっちでもいゝが、 話しは今のはやり歌のことだ。 私達が子供の頃というか若い頃、昭和10年代、その頃のはやり歌は「流行歌」といっていた。 当時の歌手は東海林太郎に代表されるように、背すじを伸ばしシャンと姿勢を正して歌っていた。 それが戦後いつの頃からであったか、身ぶり手ぶりよろしく、いわば踊りながら歌うようになった。 中には舞台中をかけまわって歌う民謡歌手もいた(大分後のことだが)。 どう歌おうと踊ろうとそれはそれで私には関係のないことなのでいゝのだが、 いつの頃からか流行歌という言葉は消えて、歌謡曲になっていた (戦時中も軍国歌謡という言葉があったと思うが)。 それは昭和30年前後だったろうか、40年代だったろうか、その頃私は思った。 歌謡曲の謡は変えなければならない、実際に合わない、歌踊曲、と。 今の若い人達は変な事をいゝだす、やっぱりボケたナ、と。 が、東海林太郎の昔を知る者(やっぱり古くなったナ)の実感だ。 私は長い間このことをいゝたかった。機会を与えていたゞいた今様に感謝して次に移ることにする。

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