GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに

小野小町
 美人といえば何んといっても我が秋田県代表小野の小町だ。世界三大美人に数えられている。 美人に大をつけて大美人なんていうのはなんとなくそぐわないように気もするが、 誰がいつ、どうして決めたかは知らないが、西の代表はエジプトのクレオパトラだ。 中国代表は唐の玄宗皇帝の寵を一身に集めたという楊貴妃、日本代表は小野の小町だ。 外の二人はその末路哀れなり、で戦乱の中で死んでいる。 クレオパトラは毒ヘビに胸をかませて死んだという(自殺)、40才くらいだとか。 楊貴妃は逆臣におどかされて、命のおしかった玄宗皇帝の命により仏堂の中で首を絞め殺されたという、 38才とか。この二人を見るとその生涯は生ぐさい。 そこにゆくと我が小野の小町はさわやかだ。 一流の歌人として在原業平、僧正遍昭、大伴の黒主、文屋康秀、喜撰法師らとともに六歌仙に選ばれたり、 柿本人麻呂、紀貫之、大伴家持らと肩をならべて36歌仙にも選ばれている。 その歌は恋の歌や夢の歌ばかりだというのも美人らしくていゝ。しかもその生没は不詳という。 いたずらに老醜をさらすよりは……。 都より人知れずひっそりと姿を消した小野の小町は、ふる郷秋田にもどり、 やがてシャクヤクとなって(小町家)、今も美しく咲いて多くの人に愛されている。
 小野の小町はどんな歌を作っていたかは私は知らないが、 百人一首にとられている歌は皆さんご存知のように、
 “花の色は移りにけりないたずらにわが身世にふるながめせし間に“
 
 百人一首といえば、紫式部の歌もとられている。
 “めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かげ“
 紫式部といえば源氏物語があまりに有名なので、 その陰にかくれて歌人としてはあまり知られていないようだが、色々な勅撰集にも多くの歌がとられており、 歌人としても一流であったむという。推定41才。
 
 ところで小野の小町は834年〜50年頃の人と考えられると、 京都でくらしていた頃のことかもしれない。となれば我が道真公と同じ頃かと思ったが、 道真公は845年〜903年というから、入れちがいということはないが、すれちがいというところか。 この道真公の歌も百人一首にあるという。私も百人一首を遊んだことはあるが、 なにせ作者名が菅家などとあるものだからそんなのカンケイネエではないが気がつかなかった。 その歌は、
 “このたびは幣(ぬさ)もとりあえず手向山(たむけやま)紅葉の錦神のまにまに“
 わかったようなわからないような歌だと思ったが、宇多上皇が898年宮滝御幸のお供したとき、 途中で詠んだ歌だと、宮滝なんてどこにあるか知らない。
 要するに「この度は急なことで幣を用意する暇がありませんでした。 代りにこの美しい手向山の紅葉を捧げます。どうか神さまの御心のまゝにお受け取り下さい。」と、 手向山の紅葉の美しさを旅の雰囲気を漂わせながら詠んだ歌だという。

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