鹿角 八幡平 松館 菅原神社春季例大祭参拝の記:はじめに |
疫病の流行は怨霊のたたり?道真の霊を北野に祀る947年6月9日、京都北野朝日寺の最鎮(さいちん)と近江国比良社(ひらしゃ)の禰宜(ねぎ) 神良種(みわのよしたね)が、京都の北郊北野の右近(うこん)の馬場に、 故右大臣菅原道真を祀る祠(ほこら)を建てた。 この年の3月、 火雷天神(からいてんじん)が、良種の7歳になる息子太郎丸に、 同地に火雷天神を祀るよう託宣したため建てられたもの。 この年は疫病が大流行し、天変がしきりにおこり、人々は道真のたたりと噂していた。 道真が左遷先の太宰府で没した6年後に、 左遷に追いやった左大臣藤原時平(ときひら)が39歳の働き盛りで没した。 道真のたたりの噂はしだいに広まり、 政府は923年道真を本官右大臣に復し正二位を贈り左遷命令を破棄したが、 怨霊の崇りはやまなかった。 930年6月には内裏清涼殿に落雷があり、 醍醐天皇は、目前で大納言藤原清貫が雷に焼かれて即死した衝撃で死の床に伏した。 以後、道真の怨霊は雷神と結びつけられ 、雷神(火雷天神)を祀っていた北野の地に祀られることになったのである。 …… こうして道真公も神さまとして祀られるけだが、 大宰権帥(だざいのごんのそつ)という下役に落とされて無念の涙をのんで九州に旅立つときに、 日頃愛(め)でていた梅の木に “東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春を忘るな“と別れを惜しんだ話は、 皆さんご存知のとおりですが、 九州に行って不遇のうちに2年後病気のために亡くなるわけですが、 その前年都(みやこ)をしのんで作った重陽後一日(九月十日とも)という詩もまたよく知られている (重陽(ちょうよう)=九月九日=菊の節句)。 去年の今夜清涼に侍(じ)す 秋思の詩篇独り腸を断つ 恩賜の御衣今此(ここ)にあり 捧持して毎日余香を拝す 亡くなったのは903年(延喜1)2月25日というから、暖かい九州には大好きな梅の花が咲いていたろうか。 |