鹿友会のこと
「はじめに」
 
 
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」明治時代
 
三、会誌
 その始め、在京学生の団体であった鹿友会が、五十年後の今日、鹿角郡出身者及び関係者の団体に 成長を遂げ来ったのであるが、この五十年の誇りに花を添へるものは、年刊「鹿友会誌」の継続である。
 
 殊に明治二十四年創刊第一号以来、本年即ち昭和十二年の第三十九号に至るまで、一冊の欠号もなく、 幹事より幹事へ引継がれて、完全に保存されてゐる一事だけでも、恒久的愛郷心の象徴として、幾多他郷の 郷党団体に対して、自負の念を禁じ得ないものがある。
 
 さて鹿友会誌の発行は、創立後五年目に創刊されたのであるが、最初の間はなかなか年次的には発行され なかった。  即ち、
 第一冊(明治廿四年六月)
 第ニ冊(明治廿五年ニ月)
 第三冊(明治廿六年一月)
 第四冊(明治廿七年七月)
 第五冊(明治三十年八月)
 第六冊(明治三十五年七月)
 第七冊(明治三十六年七月)
 第八冊(明治三十八年三月)
 第九冊(明治三十九年八月)
 第十冊(明治四十一年八月)
 第十一冊(明治四十二年九月)
 第十ニ冊(明治四十三年十月)
 第十三冊(明治四十四年七月)
 第十四冊(明治四十五年三月)
 
 かく明治時代の鹿友会誌は、時にニ三年、甚だしきは五年も間隔を置いて発行された事もある (大正以後は、流石に事務も整頓し、概して毎年欠かさず発行されるやうになった)。
 紙幅は、終始一貫菊判を以てし、紙数は毎号大抵七八十ページで、殊に創刊の明治二十四、五年代は、 日本に於ける新聞の勃興時代で、その紙面体裁等を十分整備しなかった当時であったから、本誌創刊号も、 頗る此の時代の面影を反映し、活字の字体、組方より、その編輯振り乃至文体に至るまで、活版本としての 古典的趣味頗る濃厚である。
 
 鹿友会が明治ニ、三十年代に於て時に断続し、年次的に発行せられなかった大なる理由の一つは、 その出版費が主として寄付金に依存して居ったからであった(尤も創刊号の発行部数は百五十部、その後 経費は十八円余に過ぎなかったのであるが)。
 斯くて四十年代に至って、各会員より会費(例会費及び総会費は別)を徴収して、事務費及び会誌発行費に 充つる事となり、鹿友会の経常収支は茲に先輩故旧の喜捨に依存することなく、独自の経済を樹立することが出来、 従って鹿友会誌も、毎年順調に刊行さるゝに至った。

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