鹿友会のこと
「はじめに」
 
 
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」明治時代
 
 創刊以来の鹿友会誌を渉猟して、その内容を紹介し、人物や議論や時代色を点検することは、 興味もあり、相当意義ある事と思ふのであるが、あまり長くなるから割愛する事とし、唯だ当時の鹿友会が 旧藩主南部伯爵家と密接な関係を保ってゐた事が、古い会誌の上にゆかしい匂ひを留めてゐる一事を紹介しよう。
 
 会誌第一号には、時の南部家当主利恭伯の題字を、仝じく第二号には、先代利剛老公の題歌を、 何れも特に石版刷として巻頭を飾った。
 第三号には矢張り、巻頭に令嗣利祥氏の学習院制服姿の写真石版を掲げた。又第二号の巻頭には、 南部伯爵より本会に鶴紋章付本盃一個を贈られたることを、第三号の巻頭には、南部伯爵家より金五円を 本会誌印刷費として寄贈されたことを、特殊の体裁にて公告してゐる。
 
 その他、会員一同南部藩懇親会に出席(三十一年一月)して、代表をして演説せしめたこともあり、 四十五年の本会二十五周年祝賀会には、南部伯爵が代理を来賓として出席せしめたなど、 時代が遡れば遡るほど、旧南部藩主並に南部藩と本会との関係が如何に濃厚であったかを、看取し得るのである。
 
 又これと関連して思出さるゝは、明治四十二年に改正された本会規則の第一条に、「本会ヲ名ツケテ鹿友会ト 称シ、陸中国鹿角郡出身者ヲ以テ組織ス」とあり、これは其後現行の「秋田県鹿角郡出身者云々」と改められた のである。
 何故に”秋田県”と云はずして、殊更に”陸中国”と云ったか、今の青少年会員諸君は不思議に思ふであらうが、 この僅か三字のうちに、当時の鹿角人士が、旧藩思慕の千万無量の意味を込めてゐたことを、 見逃してはならないのである。

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