鹿友会のこと
「はじめに」
 
 
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」明治時代
 
ニ、貸費
 初期時代の鹿友会の経済は、例会毎に会費十銭を徴して其時の費用に充て、 会誌の発行は全部寄付金を以てした。但し総会の費用はどうしたか、今文献の徴すべき ものがないが、年一回のこととて、必ず酒食を共にするを例としてゐる。 恐らくは相当の会費と相当の寄付金に依った事であらう。故に規則第十四条第十五条の 積金、即ち鹿友会の資金は、主として賛成員の提供した寄付金と、会員の入会金一名(三十銭) の集積であった。
 創始後五年目の明治二十四年五月現在の資金は、寄付金六十九円十銭、入会金八円四十銭、 合計七十七円五十銭と計上されてゐる。
 
 かゝる貧弱なる世帯であったに拘らず、我が鹿友会は、二十四年十二月の例会に於て、規則に大改正を加へ、 学生貸費、維持員設置のニ件を挿入し、別に「積金臨時貸与規則」を制定した。この貸費生採用の事は、 大正期より現在に亘って、鹿友会の主要なる事業として奨学制度を実行し、少なからぬ秀才を世に出だし、 育英制度に努力してゐるのであるが、鹿友会創立の先覚者が早くも創立五年目といふに、育英事業に著眼し、 その実現の第一歩を踏出したことは、洵に敬服に堪へない次第である。
 
 その規定といふのは、
 第十六条 品行方正学術優等前途望ヲ嘱スベキモノニシテ、資金ノ為メ志望ヲ達スル能ハザルガ如キ 厄境ニ陥ルトキハ、正員三分ノ一以上ノ発議ニ拠リ、維持員三分ノニ以上ノ同意ヲ得テ、本会ヨリ応分ノ 貸費ヲ許スコトアルベシ
 但シ、貸費ヲ受クル者ハ、月賦ニテ漸次返弁スルノ義務アリトス
 
 而して維持員の設置は、是等の重大事項を協議する為と、本会の維持拡張を計るために設けられたもので、 其職務は、現在の評議員に該当したものである。維持員に挙げられた人々は、
 折戸亀太郎、石田八彌、大里文五郎、青山芳得、山本祐七、吉田康共、上野茂八郎、青山守太、 本田伊三次、内藤虎次郎、川口恒蔵、内田清太郎、小笠原忠太郎
の諸氏であった。
 
 斯くてこの新規定を適用して、最初に選ばれた鹿友会貸費生は、当時第一高等中学校に在学中の 川村竹治氏であった。廿六年一月発行の鹿六友会誌第三冊に、
 ”正員川村竹治君 本会第十六条ニヨリ貸費生ト定ム”
と発表された。
 
 而して会誌上の会計報告の欄内に、新たに積金の外に維持費の項目を設け、貸費支出として拾八円を 計上してゐる。これは川村氏に対して毎月金ニ円づゝ廿五年四月より十二月に至る支出と推定される。
 といふのは、会誌第四冊に明治廿六年一月より廿七年六月迄毎月ニ円づゝ正員川村竹治君へ 交付として金三十六円の貸費を計上してゐるからである。
 
 爾後の会誌には、貸費の事は一行も報告されて居らず、川村氏は明治三十年七月帝大法科を卒業し、 内務省県治局出仕として官界に進出した。
 斯くて明治時代の鹿友会の貸費生は、前にも後にも川村氏一人に止まったのであるが、 併しこれが伏線となって、後に述ぶるが如き、大正期の於ける鹿友会奨学事業勃興の素地を作ったのであった。

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