鹿友会誌(抄)
「第一冊」
 
△希婦の狭布の事   川口恒藏
 延喜式に拠れば、古へ陸奥出羽越後の国々より産せり、就中、陸奥の希婦の狭布は、 尤も世に名高かかりしことは、新撰六帖・袖中抄等の書にて知らる、擁書漫筆に、旧蹟 遺文を引て、「希婦の狭布のは、今猶鹿角の古河村をけふの郷といへれば、其地より産 せし者なるべし」といへり、
 是は実に疑もなきことにて、古河村にては、今猶之を織る家ありて(黒澤覺平といふ )忌機の古法をさへ伝へたり
 
 さて狭布と細布とは、全く別物なり、細布は安房上総の所産にして、長四丈二尺広 二尺四寸を以て一端となし(醍醐天皇延長五年の制に拠る)、東大寺要録に拠れば、一 に調細布とも云ひて、細とは幅の広狭に就て称したるにあらすして、糸の細く目の細か なるを称したる者なることは、冠辞考に細布とは布の精巧なるを称美したるなりと云へ るにて知るべし
 
 狭布は、長三丈七尺広一尺八寸を一端として、当時諸国進貢の諸布中、最も幅の狭き ものなりけるより、名を負せて、さぬの、又せばぬのと呼びたり
 
 陸奥国には元来、狭布を貢する国にして、細布を貢せしことなきは、養老年中(后崎 團同)細布の端尺を長四丈二尺広二尺四寸と定められて、陸奥の税布は長三丈九尺広一 尺八寸を以て端となすと定められたること、及び延喜式に狭布を貢せしことは見ゆれど も、細布を貢せしことは見えず、
 又三代格に、大同五年陸奥浮浪人準其土人輸狭布とあるにて、知らるゝなり、されば新 撰六帖に布題にて、
 
 陸奥のけふのさぬのゝほとせはみ またむねのあはぬ恋もする哉
 
 又袖中抄に、
 
 いしふみやけふのせはぬのはつはつに あひ見ても猶あかぬけさかな
 
とよみて、希婦の細布とはよまさりしを、其織巾のいとも狭きものなるより、古人も全 く細布と(細布の称謂を誤解し)同品なりと思ひ誤りて、顕昭など「けふの細布とはみ ちのくに出くるせはき布なり、せはければ狭布と書きて、やかて音に、けふと訓みて 、訓に細布(ほそぬの)とよむなり、其音訓を合せて、けふの細布といふなり」と云ひ けるは、固より取るに足らぬ杜撰の謬説なるを、今は反て此謬説の普通となりて知られ 居るこそ奇怪なれ、
 こは蓋し、其始め狭布と細布とを弁へぬ歌道の宗匠たる者の口より出て、終に伝家の 歌学として伝りしによるものならんか
 
 さて、何故に古へ布を貢せしかといふに、調とし庸とし、又租として貢し、以て宮家 の用途に供せしなり、調として貢するもの、之を調布といへり、調布は、つきぬのと 訓して、租庸の外に正丁一人毎に二尺六寸つゝを貢するなり
 
 庸として貢するもの、之を庸布といへり、庸布は、ちからぬの、又はちからしろ のぬのとも訓して、力役の代として、正丁一歳十日の役の代りに、二丈六尺を貢する なり、租として貢せしものは商布なり、商布は和名、之をたに(たは、手には 布の義にて、手作布といふ義なりといふ)といひ、専ら貿易売買に用ゐたる布にして、 或は之を調庸として貢せしことあり、又僧侶の施物として用ゐしなり、
 醍醐天皇の延長中前制により、陸奥出羽越中越後佐渡等の三十余国は、各其制する所 の布を以て調布となし、庸布となし、商布せしものならん、
 猶品質等の事に就きて調へたるふしもあれと、そは次に譲ることゝせん

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