鹿友会誌(抄) 「第四十五冊」 |
△青山芳得君を憶ふ 世間の人は武人としての君を知るも、その文芸趣味を多分に有したることを知る者は、蓋し 少なからうと思ふ、特に晩年に至りては、盆栽に興味を持たれ、就中杜鵑花の鉢植は、最も 得意とする所であった、僕もその愛好の盆栽の恵贈に預りたること一再ならず、今にその 厚意を忘れない、又君は作詩に大なる趣味を感し、著しく其の進境を見るに至ったことは、 僕が古稀の齢を迎へた時に寄せられたる一絶を以てしても明瞭である、其詩は次の如くである。 賀亞洲川村先生七秩寿 梧堂 夙列台槐荷寵光 又班上院寿而康 人生七十無踰矩 帷下薫陶晩節香 と云のであるが、結句はその年、僕は中学校を創立したる為め、之に言及されたのである、その 当時創立の事務に忙殺されて、之に次韻するのを怠ったが、其の後又々一詩を寄せられ、自分は 目下悠々自適の生活を送り、余生を楽しんで居ると云ふ意味の詩であった、僕は之に対して、 次の如き次韻を呈し、その好意を謝した。 戯次梧堂青山君韻 亞洲 兌酒余杭銷百憂 何関歳月等閑流 若君更倩麻姑手 掻癢酔中仙可求 又以て君の風格を知るに足るべし、君は又友情に厚きの美点を有した、自らは病身であるからと いって、その健康に最善の注意を払はれた、常に或海軍々医の著に成る、俗に「赤本」 と称する書を耽読され、僕にも一書を贈られた、此本は日常病気に対し注意すべき事柄と、その手当法 を丁寧に記載したもので、健康上の有益なる参考書であるが、中学校創立の際、更に一本を持参せられ、 中学校に寄贈された、是れ即ち君が友情の濃かなるの一の証左にして、誠に感慨に堪へない次第 である。 以上断片ながら、追憶を略記して君の冥福を祈る。 ○青山顧問の訃報に接して 中島莞子 生き延びつ逝く人数へ桔梗散る 功成りて安かに眠る露の台 |