鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△青山芳得様御経歴
  追慕記
 青山顧問の追憶は沢山ある、而かも大先輩たる五十年御交際ある、川村閣下の御追憶談は既に 掲載されて居る以上、禿筆を呵して絮述を試みる如きは、既に贅事に属する、唯だ顧問の海軍に 身を立てし理由、海軍兵学校教官たりし時に、幸福なりし事を記して欠を補はんとす。
 
 顧問は始め其の同族の青山金彌氏等を頼りて、足尾鉱山員たらんとして、足尾に就職せるが、 毛馬内の先輩として石川伍一先生の勧告切なるものあり、足尾を辞して上京し、苦学力行、海兵 に入学し、海軍軍人となりたるものと聞く。
 顧問、海軍兵学校に教鞭を執りたることあり、時に偶々同藩の後進たる、米内、及川両提督 は学生として、顧問の教へを受けたる人なり、自己の教へ子より海軍大将、内閣総理大臣を 出したるは、顧問の教育者としては恵まれたる方であった、今の永野元帥も又顧問の教へ子である。 是等の人々に終身先生と呼ばれ師事されたるは、顧問一生涯の欣びとする所であったに違いない、 古稀の際、顧問御夫妻を水交社に招待して、米内、及川両提督は謝恩を兼ねて御祝をせられたるが 如き、顧問の御喜び、察するに余りある所であります。
 
  提唱
 川村竹治閣下、石川漣平閣下、百年の後は是非とも郷里に御埋骨せられる事に御願致したし。
  理由
 冷たき一基の墓は、永遠に郷里の青年に発奮を与ふる力となり、其の後に続く人物の輩出を 促す力となるべしと考ふるからです、東京に葬られるが如き、枯骨として逐年人々の記憶を薄く することにならうと思ふからです、成るべく郷土の校庭の一角に設け、郷土の生徒をして、日々其の 霊感に接せしむる事に致したきものです。花輪、毛馬内の両町の方々に、此の運動を提唱す、 尚(人偏+尚)し墓所を学校の庭の一角に許されぬならば、碑でもよいでせう。

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