鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△青山芳得様御経歴
一、明治二年三月十七日 毛馬内町に生る
  父君は正次郎、母君はレキといふ南部藩士にして、青山家の九代目主人なり
一、明治十九年十月 海軍兵学校入学
一、同二十三年七月卒業 少尉候補生となる
一、同年十月 初代金剛に乗組、トルコ方面に遠洋航海す
  当時の練習艦隊は、金剛・比叡の二艦にして、鉄骨木皮二千余頓の小艦なりしといふ
一、明治二十四年五月 遠洋公開より帰る
一、明治二十六年十二月 對馬水雷隊攻撃部附拝命
一、明治二十七年七月 日清戦争開始後、第十号水雷艇乗組となる
  同年十二月第三水雷艇隊に編入、威海衞水雷攻撃に参加、明治二十八年十一月功に依り 功五級金鵄勲章を賜る
一、明治三十二年 海軍大学水雷科生徒となり、三十三年卒業す
一、明治三十三年九月 海軍兵学校水雷術教官となる
  現在の永野、米内、及川三大将は当時の兵学校生徒なり
  無線電信の初期研究に、鳥潟博士等と従事せるも此時代なり
一、明治三十五年十月 少佐となり、戦艦富士水雷長となる
一、明治三十七年二月 日露開戦に依り出征す、当時富士は第一艦隊の第一戦隊所属にして、 三笠、朝日、八島、富士、初瀬、敷島の六艦隊は、当時の帝国海軍の主力をなすものにして、 此内初瀬、八島は旅順封鎖の犠牲となり、イタリー製の装甲巡洋艦日進、春日の二艦を以て 補へるものが、当時の日本海々戦の我が主力部隊なり
一、明治三十七年二月上旬 聯合艦隊第一回旅順砲撃に当り、山中砲術長戦死せるに依り、 砲術長兼務となり、旅順港封鎖作戦に従事、大連湾占領後、同湾掃海作業にも従事す
一、明治三十八年一月 第十七艦隊司令となる
  五月廿七日の日本海々戦には、二十七日夜より二十八日早朝迄で、水雷攻撃を行ひ、 乗艇第三十四号は撃沈せられたるも、上口唇に軽傷を負ひたるのみなり
一、同年六月二十日 東郷聯合艦隊司令長官より第十七艇隊に対し感状を授与せられたり
一、明治三十九年四月 功四級金鵄勲章を賜はる
  同年九月中佐となる
  艦政本部、吾妻副長、第四駆逐隊司令、第一駆逐隊司令を経て
一、大正元年十二月 海軍大佐となる
  秋津洲艦長として支那方面警備に任ず
一、大正二年十二月 初代海風、嵐より成る第十六駆逐司令となる
一、同年八月 水雷母艦熊野丸艦長となる
  日独戦に参加す、戦役中第一回胆石病発す
一、同年十二月 待命となる、爾来二十八年間、同病は持病となり根治せず
一、昭和十七年九月十一日 持病に肝臓癌併発して没せらる
  法名 芳徳院壽得榮顯居士
 
  余記
一、退役後、兵学校同期生たる、秋山眞之氏と共同して、孫文一派の第一回革命を援助せるも、 該事業は、中途に蹉跌せり、以後公事に関与せず、健康上の理由を以て、盆栽、町会の世話 に悠々自適す。
一、威海衞攻撃の時は、定遠鎭遠等を撃沈し、日本海々戦の場合は、ナツリン、シソイウエリキー の二艦隊と、ナヒモフ、モノアーフの二巡洋艦を撃沈したり、勿論大佐の水雷は命中するや否や 不明なるも、帝国海軍水雷攻撃史上特筆すべき二大夜襲戦に参加したる、大佐の戦功は此の 赫々たる戦果の中に脈動つつありしは、吾人の大先輩の生前の功勲に畏敬の念を禁ずる能はぬ ものであります。

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