鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△米澤萬陸氏
 
 米澤萬陸氏略伝(鉱業家)
 その一生を通観するに只管地道なる努力に終始せるものゝごとく、殊にその小坂時代 に於いては生来健康に恵れざる肉体に鞭ちつゝ技術の改良に懸命の努力を傾けたること は屡々見聞きしたるところなるも、三十年に垂んとする小坂時代を通じて殆んど毎年授 与せられたる皆勤賞与の辞令書はその徴証となすべきか。
 然れども、この独学孤独の技術者にとりて最も幸なりしは、終始変らぬ温情と指導と を垂れその進路を誤らしめざりしよき上長、よき師友を有せしことに外ならず。即ち幼 にして始めて学問の扉の鍵を与へ給へる祖父織右衞門、板橋忠八先生、小坂にありて始 めて技術者として開眼せしめ給へる仙石博士、また当時の小坂鉱山所長にして後久原鉱 業会社々長となられ、引続き絶大なる御恩顧と御新任とを垂れ給へる久原房之助閣下を始 め、日立、佐賀関に於いても懇篤なる御好誼と御援助とを惜しみなく与へ給へる先輩知 友は殆んど挙げて数ふるに堪えず。これ寔に無形の絶宝にして終生春日に浴するが如き 恵れたる生涯を過し得たる所以と言ふべきなり。
 
 その趣味は幼少の頃習得せし素養の故か文人的色彩を帯び詩書に親みまた書画を愛玩 せり。書画の鑑識はその本業の鉱山鑑定と共に秘かに自負し居りたるものゝ如し。生来 健康に恵れざるを以て常に健康に留意し、種々なる健康法養生法を励行せしが、耳順を 過げる僅か四年にして道山に帰らしはこれ天命の然らしむるところとなすべきか。
 家庭には妻貴勢子(松本氏、昭和八年三月八日帰幽、享年六十)との間に四女二男あ り。長女縫子は理研真空管工業会社々長工学博士秦常造に、次女篠子は向島造船所常務 取締役工学士我妻聰一に、三女五百子は日本軽金属・東京芝浦電氣顧問工学士中澤眞二に、 四女雅子は東洋拓殖会社員工学士柳P一廣に夫々嫁し、長男嘉圃は東大文学部卒業、目 下興亞院所管の支那文化研究機関なる東方文化学院に勤務し、二男重男は南米に赴き 柘植に従事し居れり。

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