鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△米澤萬陸氏
 
米澤萬陸氏
前日立鉱山長たりし 故米澤萬陸氏
[黒鉱精煉法発明者独学立志伝中の人]
 
 セルフトート又はセルフメードの人ともいふべき、氏は小坂時代に既に傑出し、評判 高きは鹿角人の少し年老いたる人の知悉するところなるべし、溶鉱学に於ける造詣の深 き、博士、学士も尚ほ氏の教を受くと聞く、世界といふ大学校を独力を以て卒業せる人 といふべく、其の力行は後世に教へて余りありと思ふ、氏の肖像と其の略歴を、令嗣嘉 圃氏より寄せられ、之れを会員に頒つを得たるを幸とす。
 
 米澤萬陸氏略伝(鉱業家)
 米澤萬陸(戸籍は萬六)幼名介吉、高烟山人と号す。明治元年二月五日、米代川の畔 なる秋田県鹿角郡錦木村末広に生る。米澤家は代々南部藩士にして祖父織右衞門、父東 十郎等は孰れも盛岡に出仕せるも、直接には毛馬内櫻庭氏の配下に所属せしもの ゝ如し。
 八歳にして父を失ひ、母の再嫁せる後は姉弟と共に専ら祖父母に扶育せられ、祖父よ り素読、習字の手解きを受け、また漢学、詩文等の文学的素養もこの祖父に負ふところ 頗る多し。長ずるに及んで小学校に入り内藤十灣先生(湖南博士の先考)門下の板橋忠 八先生の薫陶を受けたり。この小学教育は実にその六十余年の生涯を通じて受けたる唯 一の正規学校教育と言ふべし。
 既に一家の支柱たる父を失ひ、加之維新の大政変以後は食禄に離れ、漸く家運傾きつ ゝある矢先き、又々十四歳の時祖父を喪ふに及び、遂に没落の悲運に際会し一家離散、 先祖伝来の家屋敷をも手離すの已むなきに至れり。こゝに於いて老ひたる祖母を奉じて 離村し柴平村小学校の代用教員となる。居ること二年にして志を立て当時工部省の直営 たりし小坂鉱山に赴き採用せられて事務見習となる。幾許もなくして小坂鉱山は藤田組 に払下げらるゝに及び、引継がれて事務見習、日給十二銭を給せらる。時に明治十七年 十二月なり。後本人の希望により分析係雇に転じ技術者としての第一歩を踏み出すに至 れり。こゝに於いて科学的知識の必要を痛感して勤務の余暇、当時鉱山の技師として来 任せられたる工学士仙石亮氏(後工学博士を授けらる)に就きて数学、物理、化学、英 語等の新知識を修得せり。
 かくて明治二十五年十二月、始めて月給十五円を禄せられ正社員に昇任し、爾後同三 十年七月、精鉱課分析係長に抜擢せられ、同三十二年一月、精鉱課乾錬係長、同三十九 年六月、精鉱課精鉱係長に歴任し、同四十一年一月、精鉱課長に累進す。而して乾錬係 長時代、即ち明治三十三年かの黒鉱製錬法を発明しその功により特別の褒章を受け、以 後技術の改良により屡次授賞せられたり。同四十四年五月藤田組を辞し、久原鉱業所(久原 鉱業株式会社の前身)に聘せられて本部調査課技師に任じ、同四十五年五月日立鉱山分析課 長となり、大正元年十月久原鉱業株式会社(日本鉱業会社の前身)創立後も引続き同山 にありて分析課長、買鉱課長を歴任し、大正七年二月佐賀関製錬所長に進み、更に同十 二年十一月日立鉱山所長に転じ傍ら昭和二年九月日立電力株式会社(本年関東配電株式 会社に合併)取締役に就任す。越えて同三年十一月途を後進に啓きて勇退し、爾来悠々 自適の境地にありしに不幸二豎の襲ふところとなり同六年六月二十九日永眠す。享年六 十四。

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