鹿友会誌(抄)
「第四十冊」
 
△吉田篤弘君の死を悼む   小田島信一郎
 吉田耕造さん……篤弘と改名しても、私には昔の耕造さんの方がなつかしい。……が 朝鮮で死んだ、といふ通知を受取った時、私は非常に驚いた。朗かで、陽気で、そして 男振りが好くて、誰にでも好かれさうな耕造さんが、朝鮮の山奥で死ぬなどゝといふことは、 余りにも似つかはしくないことだと思ったからである。
 
 耕造さんが小学校在学時代から頗る美少年た゜ったばかりでなく、剣道に於ける姿の 美しいことは、全く惚れぼれするやうであった。両脚をぐっと開いて、腰を下し、両手に 竹刀を握って正面をみつめた、あの均整のとれた姿は、私の祖父治右衛門の推賞して やまぬものであった。況んや、サッと一歩踏み出し、電光石火の如く打ち込んで行くあの 颯爽たる武者振りに至っては、何人も讃美しないものはなかった。
 大館中学では私より二級下だったが、それ以来二十数年間会う機会がなくてすぎ去った。
 
 吉田慶太郎さん夫妻が上京された時、二人を中心とした会を渋谷の代官山で開いたことがあった。 その時耕造さんもみえて、みんなで隠し芸をやることになると、耕造さんは追分を唄った。 あゝ、なんとその声の美はしかったこと。朗々玉を転がすが如しともいふべき透き通った、 曇りのない声で、あの北国特有の哀調を帯びた追分を、さも楽々と唄ってのけたので、 一座みな恍惚として聴き入るばかりであった。
 男振りが好くって、声が好くって、朗かで、おまけに剣道に優れた腕をもっているといふ 三拍子も揃ってる耕造さんが、何所に行っても必ず人に好かれたにちがひないし、従って、 すらすらと生活の軌道を進まれたことは疑ふ余地がない。
 
 一時久原の会社を勇退して、大森の雪ケ谷で庭木いぢりをしたりして、悠々自適の生活を 送られたことがあった。其頃のことである。私が或る友人を紹介したことから、非常な損害を かけたことがあって、何とも相すまぬことだと心秘かに恐縮して居たのであったが、其後 御令息の就職のことか何かで会った時には、いつもの通り、にこにこして、その問題などは 殆んど意に介しないやうな顔をして居られたので、私は益々自責の念にかられざるを得なかった。
 たしか銀座裏の『五萬石』ど、佐藤賢治君と三人、昼飯をたべたのが、耕造さんに会った 最後だと思ふが、今でもはっきり耕造さんの柔和な笑顔と、朗かな声音とが私の脳裡にきざみ 込まれて居るのである。
 
 私は、構造さんの実社会に於ける活動振りに就いては、何等知る所がないが、あの性格から 想像してみして、必ずや至る所で、成績を挙げ、而も同僚先輩から親しまれ、愛されたに ちがひないと断定したのであるが、令夫人からいただいた手紙を読んでみて、私の想像の 余りによく適中したのに驚くと共に、働き盛りの五十一歳で、あたらこの世を去られたのを、 哀悼するの念がいよいよ切なるのを覚ゆるのである。
 
 御令息の三郎君にはお会ひしたことはないが、きくところによると、三郎君は父君のあとを 追ふて、日本鉱業に入社され、而も父君の勤務されたその甕津鉱山で、同じやうな仕事をして 居らるゝとか。亡き父君も、さぞや、よき我が後継者を得たものよと、地下に於て満足して 居らるゝだろうと思ふ。三郎君の自愛と奮闘を希望してやまぬ次第である。

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